天勝野球団


松旭斎天勝と野呂辰之助

新聞という『情報』によって遠方まで広まり、鉄道という『交通』によって遠方まで交流する。そうして野球人気は日本中に広がっていった。しかし『情報』と『交通』によって発展したのはひとり野球だけではなく、あらゆる『興行』がそれらの恩恵を受けた。相撲、歌舞伎、演劇、その中には本格的西洋奇術を大当たりさせた松旭斎天一一座もいた。

一座の人気を天一とともに支えたのが松旭斎天勝である。本名中井かつ。明治19年生まれ。11歳の時に松旭斎天一の弟子になり、才能と美貌で17歳の頃には一座の花形になったという。一座は、欧米巡業を成功させた後、明治38年に帰朝公演を行う。その準備のために支配人として迎えられたのが「父親の藤助と2代続いて興行界の惑星といわれた切れ者」野呂辰之助であった。痩身で一見したところ大正時代の「インテリ」といった風貌、当時28歳であったという。

野呂はこの帰朝公演を成功させ、その後も独創的でハイカラなカラー広告などを次々に実行して大当たりをとり、明治末には天勝を「日本の女芸人中最高」の人気者に押し上げ『興行界のモンスター』と呼ばれるようになっていった。天一晩年の明治45年、養子の天二との跡目争いで分裂した時も、野呂が天勝を選んだことで、主だった座員が天勝一座に参加する事になったほどである。

天勝は人気者ではあったが舞台のことしか知らず、実務一切は野呂が切り回す事になる。道具、衣装の手配、団員の給料、更には天勝自身の家族の生活まかない一切、もちろん一座の演し物も野呂が企画していた。余談だが、この時「寸鉄人を刺す」の例えから野呂は奇術応用の短い劇を「寸劇」と名付けている。

大正4年、野呂は天勝と結婚する。これは突然天勝から申し込んだものだったようだ。のちに天勝自身が回想するところによると「・・・芸の外の世事にはまったく疎く、殊にお金の勘定といったら小学生にも及ばないお恥ずかしい知能しかない女です。ですから、もし何かヒョンなキッカケからこのマネージャーに見放されたら、木から落ちた猿よりもみじめなことになるほかはないのでございます。とうていこのような大一座を背負って立てる女ではなかったのです。そこで考えました。『いっそ私は野呂さんと結婚しよう!』と・・・」

この結婚は「政略結婚」との非難を浴び、一座は分裂する。「打算」なのか「愛情」なのか、ここでは本題から離れるので、野呂と天勝の、一座での役割を見るにとどめたい。野呂はこの分裂による危機を、当時の2代女優、川上貞奴と松井須磨子によって演じられ、ブームになっていた『サロメ』を天勝主演で上演するという企画で空前の大当たりを取って乗り越える。

大正10年当時、『興行界の鬼才』『福の神』と呼ばれた野呂の屋敷には天勝の弟で慶応に通う吉沢広吉をはじめ、多くの学生が書生として住み込んでいた。5大学リーグ華やかな時代、早慶戦の復活を望む声も多く、また次々に来日するアメリカチームの話題や、前年秋に設立を宣言し、この年から見習選手募集の広告が新聞に載りはじめていた日本運動協会の話題もあった頃である。

「この風潮に目を付けた野呂は、『よし、ここで天勝野球団を作ってやろう!』と思い立ちました。これを尖兵にして宣伝に利用すれば人気を煽ること請け合いだ!と、例によって企画は直ちに実行に移す野呂の事ですから、早速結成に踏み切りました」(『天勝一代記』)

野球団の選手集めは主に吉沢広吉が行った。彼は慶応の先輩、小野三千麿をコーチとして招く事に成功する。やがて大学出身者を中心に天勝野球団は結成された。ユニフォームは胸に一座の幸運のシンボル、馬蹄のマーク。その真中に「天勝」の文字。結成から一年間の活動は、大正11年3月号の雑誌『野球界』に「天勝野球団 鶴 芳生」と名乗る人物が寄せている「劇界の代表チーム 天勝野球団」という一文に詳しい。大平昌秀氏の【異端の球譜】では、この「鶴芳生」を野呂辰之助のペンネームであるとしている。

「近時野球界の盛んなることは絶頂に達して居ります。各商店又は会社等にてチームを有せざるはなき有様です。演劇界にても河合一派の梅島主将のピーマ倶楽部を始めとして、根岸興業部、五九郎、村田栄子一派等各派チームを有して巡業中各地に転戦して大いに気焔を吐いて居ります。中には夜の興業よりボールに於て人気を得て居るチームも有る様です。此の時に当りて松旭斎天勝は大いに感ずる所有りて、昨年二月チームを作り、旧慶応選手小野氏のコーチの下に熱心なる練習を開始致しました。・・・・・」

当時は興業団が趣味と宣伝をかねて野球チームを持つのがひとつの流行であったようだ。他にも新国劇、新派、浅草オペラ、東京相撲(現、大相撲)も野球チームを持っていた。

鶴芳生の文によると、小野三千麿をコーチに大正10年2月に結成された天勝野球団は、慶応で小野とバッテリーを組んでいた森秀雄のコーチするピーマ倶楽部との対戦を皮切りに(7−8で敗戦)松旭斎天勝一座の巡業に合わせて各地に先乗りし、当地の野球チームと試合をしていった。満州、朝鮮にて1勝4敗、門司にて2連勝の後、博多で天勝が1ヵ月入院した為に、その間、九大運動場で特訓し、その後、大分、広島、下関にて6勝4敗1分。下関で対戦した強敵、『全小倉軍』には早稲田OB及び現役選手が4人もいた。内、捕手の市川忠男、二塁手の浅沼誉夫は後に『大日本東京野球倶楽部(=東京巨人軍)』設立に重要な役割を果たす。天勝野球団は4−8で完敗した。

更に中国大陸へ向かい、青島、上海にて4勝1敗、九州に帰り長崎、佐賀、久留米、熊本、中津と転戦して8勝4敗。久留米では同じく地方巡業中であった「東京大相撲」チームとの対戦もあり、横綱栃木山も応援に駆けつけていたという。徐々に調子を上げてきた天勝野球団は天勝一座とともに台湾遠征に向う。

3勝1敗で迎えた『監水港製糖会社チーム』は台湾でも1,2を争う強豪であったが12−7で逆転勝ちすると、続く5試合に連戦連勝、台湾最終戦は「天勝手強し」として各地から選手を補強したもうひとつの強豪『わかば軍』。「非常にエキサイトし、近来になき試合」であったが4−2で天勝野球団が勝利し、この台湾遠征を10勝1敗の好成績で終える。内地に戻って豊浜、浜松にて2勝1敗でこの年の試合を終える。鶴芳生の記録による成績は34勝15敗1分であった。

『野球界』の鶴芳生の文は、最後に次のように結んでいる。

「尚チームは他の同業者に於けるチームと異り、広告本意のチームでは有りません。ミカド歌劇団及び未来派等にては、某女優にユニフォームを着せて右翼に立たせ、大いに人気を呼び、又彼女をして入場券を売らしむるが如きなせし。為めに吾がチームも同一視され、大いに困却致した事も有ります。商売と野球の試合は別問題です。ボールに負けた故に見物に来ない人は、そんな狭い量見の人は来て頂かなく共結構です。野球は男子の遊戯です。正々堂々勝負を決せんと欲するチームは御申込の上、御教授を願ひます。之れが『野球界』に出る時分には京阪神地方に巡業して居ります故に殊に同地方の同志チームの御申込を待つ。」

ここで鶴芳生は『広告本意のチームでは有りません』『商売と野球の試合は別問題』『野球は男子の遊戯』と、明確に“純粋な勝負としての野球”“野球団としての興行”を打ち出している。この事は当初野呂が天勝に言ったという『これを尖兵にして宣伝に利用』とは大きくかけ離れている。鶴芳生が野呂本人のペンネームであったとすれば、この違いは野呂と天勝の野球に対する考えの違いから出ているように思える。

幾多の興行団のチームとは一線を画し、『正々堂々勝負を決せんと欲するチーム』を求めていけば自然に高いレベルのチームとの対戦を望むようになっていく。しかしながら現実に天勝野球団が対戦したチームには、当時のトップレベルであった学生チームやそのOBチーム、有力クラブチームはなく、好成績を残した台湾遠征も「台湾は野球は余り発達は致して居りません。満鮮に比する時は一歩の差は確に有ります」というレベルであった。

大正10年には三田―稲門戦が行われ、翌大正11年には日本運動協会がいよいよ早稲田との試合でその実力を見せ、野球ファンの注目を集める。天勝野球団のコーチ、小野三千麿は東京日日新聞の記者であり、三田倶楽部のエース、さらに前年から大毎野球団に参加していたが、11月に来日した大リーグ選抜を森秀雄とのバッテリーで9−3と勝利した。これらの野球界の動きは当然野呂の耳にも入っていたであろう。あるいは直接見たかもしれない。そこには当時のトップレベルの野球があった。

大リーグ選抜との試合の後、小野は活動の中心を大毎野球団に移し、天勝野球団のコーチを辞する。野呂は天勝野球団の強化を小野に頼むつもりであっただろう。しかしこの裏には小野が天勝の一番弟子、小天勝を名乗っていた徳子と結婚を約束する仲になっていたという事情もあった。小野は野呂の依頼に答えるべく、自分の後任に慶応の後輩で大毎野球団に参加していた鈴木関太郎を推薦する。さらに大学出身の有力選手たちを集め、天勝野球団はその陣容を一変し、プロ野球団へと変貌するのである。