日本運動協会


プロ野球団誕生

「運動競技は最早や学生の専有物に非ずして国民全部が理解する許りでなく、自ら嗜まねばならぬ時代に到達したのであります。併し運動競技の発達に連れてその弊害も亦多くなりました。これは先覚者の任に当る者が大いに指導し、戒ちょく(=戒め慎しませること)を加へねばならぬと信じます」(日本運動協会創立趣意書)

気宇壮大な理念を持って大正9年秋、日本運動協会はスタートした。自らが野球界の手本になろうというのである。まさに「本邦運動界の指南車となり、羅針盤たらん」としたのである。

資本金は八万五千円。押川、橋戸が各五千円、河野が二千円。老鉄山・中野が千円、慶応で名捕手として鳴らした島田善介も千円、更に早慶戦で河野と投げあった慶応のエース・桜井弥一郎、その後輩で米大リーグコーチ招聘に尽力した神吉、早稲田の飛田忠順等の野球人、及び企業人の援助で設立された。日本プロ野球史上第一号の野球団誕生である。

その定款による事業目的は

一、   運動競技に関する一切の事業

二、   運動場競技場の設計工事、工事監督修繕請負及び之に附帯する一切の業務

三、   各種運動体育用具の製造販売及び之に附帯する一切の業務

プロ野球団以外にも実に幅広く事業展開しようとしていたのである。これはいわゆる「武家の商法」的素人商法ゆえではなく、理想の球団の経営的安定に対する苦労であると思われる。

さて、アメリカ遠征で本場の野球に触れた河野らは「球団は球場を持つべきである」という信念を持つに至った。従って真っ先に着手したのは本拠地球場造りである。芝浦に二万平米のグラウンドを造るための借地権の費用に起業予算のほとんど、75,455円50銭が充てられたという。

翌大正10年1月から選手の募集が行われた。新聞広告はかなり長期間、繰返し出されたようである。【もう一つのプロ野球】の中に元芝浦協会選手、原山芳三郎氏の遺稿が紹介されているがその中に「日本運動協会専属チーム募集要項」の原稿がある。

1、     年齢 18歳より30歳まで

2、     兵役 なるべく関係なきもの

3、     学歴 中等教育を受けたるもの

4、     以上三条件に適したる応募者中より更に健康、人格、技量の3点を吟味せん衡の上、約15名を選出し見習選手として採用す

5、     見習選手は当協会養成員の指導にて一ヶ年の練習をなし、合格せるものを本選手とし、不合格者は採用せざるものとす。但し養成員に於て人格、技量共に優秀なりと認められたる者は規定の練習を経ずとも特に本選手となし、又規定の練習をなすも到底本選手の見込みなき者は中途謝絶する事ある

6、     応募者には旅費を支給せざるも、一旦見習選手となりて後合格せざりし者には帰郷旅費を与ふ

7、     (1)見習選手には正規の練習中食費の他手当てとして金十五円を支給。但し当教会の指定したる場所に合宿するものとす
(2)本選手の待遇は学歴、人格、技量、年齢を斟酌して初任給五十円より百円迄とし漸時成績により増給す。練習に励み試合の際成績優秀なる者に対しては時々賞与を与ふ。職務の為の負傷又は疾病に対する治療費は見習、本選手たるを問はず協会之を負担す。尚本選手に対しては恩給制度の設けあり

8、     見習選手或は本選手のうち尚勉学の志あるものに対して選手としての義務を行ふに差支なき時間、適当の学校に通学する自由を得せしむ。但し学費は自弁とす。学校卒業といへども本選手となりしものは其義務を続行するものとす

9、     特に人格、学術、技量共非凡なるものは学費を支給して勉学せしめ、卒業後当協会の選手たる予約をする事もある

年齢条件などは途中で変更されたようである。また、常に全文を新聞に載せていたわけでもないようであるが、これが河野らの考え方であった。注目すべきは「公傷」「年金」の考え方が織り込まれていることである。「学歴」「人格」が重視されているのも、当時の「芸人」に対する世間の評価の低さが根底にある。協会軍選手だった片岡勝氏の回想によると「ゲーム中、しばしば『商売、商売』と野次られた。エラーをすると『月給が下がるぞ』といわれた。あのころはサーカスのようにどんなに高度の技術でも、お金をとって興行的に見せるものは芸人といって卑しんだが、われわれは野球の芸人扱いされた」とある。

そのような時代ゆえ大学卒の選手は応募してこなかったが、応募者の数は河野らの予想を大きく超え200人に達するものだった。採用試験は数ヶ月にわたって何回も行われたが、その最初の合格者が投手の山本栄一郎、捕手片岡勝、外野手大賀六郎。結局、最年長27歳の中村薫治から最年少14歳の黒田正平までの14人が採用された。

大正10年秋、芝浦球場に合宿所が完成すると、この14人の合宿生活が始まった。河野、押川、橋戸の3人を中心に練習を続け、早稲田OBの市岡忠男らもしばしばコーチする事もあったという。練習は午後行われたが、午前中は「英語」「数学」「簿記」「漢文」などの授業が行われ、夕食後にも続けられた。当時の様子を【もうひとつのプロ野球】の中で片岡勝氏が語っている。

「河野先生はいちばん厳格でした。チームプレーなどハウ・ツー・ベースボールの理論を徹底的に教え込まれました。押川先生は口を開けば精神訓話でした。『いまの学生野球は学生のくせに学問を軽視し、スター気取りで、学校の宣伝の具に堕している。われわれは立派なプロ野球をつくって学生野球を浄化しなければならない。諸君の前途は洋々たるものだ。未来を信じて、とにかくまじめに努力しろ』とお説教でした。橋戸先生はきびしい中にもユーモアがあり『ここで一本ヒットを打ったら、褒美にこのアメリカ製のバットをやるぞ』というような調子でした」

「学歴はなくても、将来、大学選手と対等に口をきけるだけの学力、社会常識を身につけなければ、プロ野球を世間に認めさせる事は出来ないといわれ、一生懸命に勉強しました。また簿記などは、いつか年をとって野球が出来なくなった時に役に立つように、という配慮でもありました」

「外出にはいちいち河野先生の許可が必要でした。外出時には絣の着物に袴をつけ、必ず鳥打ち帽をかぶりました。無帽で外出すると叱られました。プロ野球選手の合宿というより、きびしい学校の寄宿舎生活のようでした。袴をはいた協会の選手を見て、はじめのうち近隣の人々は、芝浦に新しい学校が出来たと思ったようです。まさに、いまでいう管理野球そのものですが、それを不満に思う者は一人もいませんでした。日本のプロ野球のリーダーになるのだから、これくらいの苦労は当たり前だ、と思っていました。みんなの気持ちが一つにまとまっていました」

そこには河野ら3人の理念、『本邦運動界の指南車となり、羅針盤たらん』という意気込みが選手たちに伝わる様子がうかがえる。河野もきびしいだけではなく、選手たちとトランプをしたり寄席へ連れて行ったりする一面もあった。山本栄一郎は「あの頃は本当に幸せだった」と、また当時の選手で、生涯二人と行動を共にし、後にイーグルスのマネージャーとなった小玉与太郎は河野、押川に心酔し、「おれは人生のすべてを両先生に教わった」と常々語っていたという。


日本運動協会チーム結成時メンバー


氏名 ポジション 生年 出身
山本 栄一郎 投手、三塁手 明治35 島根商業。初代主将
篠崎 勉 投手 明治32 栃木・下野中学中退
片岡 勝 捕手 明治38 大連商業中退
原山 芳三郎 一塁手 明治32 長野県出身・横浜英語学校ー長野県安茂小学校教員
大井出 東繁 二塁手 明治35 長崎県出身。佐世保中学
清水 鷹治郎 三塁手 明治32 長野県・野沢中学ー小学校教員
小玉 与太郎 遊撃手 明治37 山形県出身
中沢 薫治 外野手 明治27 秋田県・大館中学。マネージャー兼任。
小沢 寛 外野手 明治38 静岡県出身
大賀 六郎 外野手 明治36 兵庫県・姫路中学中退
御所名 映二 外野手 明治36 大阪・天王寺中学
矢田 真太郎 外野手 明治36 逗子開成中ー東京物理学校
黒田 正平 外野手 明治40 東京市出身。
奥村 融 外野手 明治37 横浜商業付属補習学校。