大毎野球団


スター選手軍団の誕生

関西においてはスター倶楽部、ダイヤモンド倶楽部の出現によりクラブチームが全盛を迎えようとしていた。このような中、大正9年5月、大阪毎日新聞社が自社の新聞拡販戦略として野球チームを組織する。スター選手軍団、大毎野球団の誕生である。東京において人気、実力とも頂点にあった学生野球の堕落を浄化するという強い意志を持って日本初のプロ野球団『日本運動協会』が設立されるのは、その年の12月であった。

明治以来の文化の牽引車、『情報=新聞』と『交通=鉄道』は大阪においてその最盛期を迎えたのである。即ち『新聞王国』と『私鉄王国』の誕生である。これが東京ではなく大阪に生れたのは、東京が『官』の支配する土地であり、大阪が『民衆の都』であったという背景がある。小林一三はこの東京と大阪の違いを『必ず東京の事業には政治が伴っている、或は近代の政治組織がこれに喰い入っている。(略)その点に行くと大阪はまことに遣りよい、なんら政治に関係して居らない。』と評している。

東京における新聞は、政党機関紙あるいはその亜流にして、『官』権力と迎合、反発、抑圧を繰返し、中小新聞の乱立状況であったが、大阪においては『官』の影響下から離れ、民衆を対象とした『大阪毎日新聞(大毎)』と『大阪朝日新聞(大朝)』が二大紙としてしのぎを削っていた。両紙は『東京日日新聞(東日)』と『東京朝日新聞(東朝)』という形で東京進出を果たしている。大正10年の発行部数は毎日が686,593(大毎)と375,538(東日)、朝日が444,600(大朝)と291,957(東朝)であった。ちなみに両紙が100万部発行を謳った大正14年の読売新聞の発行部数は僅か55,296である。

私鉄もまた、『官』の支配する東京においては、官設鉄道に隷属するようにしか発達し得なかったのに対し、大阪では官の規制の強い『私設鉄道条例』に依らず、『軌道条例』(馬車鉄道の為の条例)を拡大解釈し、官設鉄道に真っ向から対抗する私鉄の誕生をみている。これは今も山手線の内側にほとんど路線を持たず、JRの駅に付属するようなターミナルの関東私鉄に対し、JRとの乗換えを断固拒否するかのような関西私鉄のあり方にその名残を見る事が出来る。

野球の発展においても、東京と関西には違いが見られる。一高(現・東大)に始まり、慶応、早稲田の拮抗、明治の台頭によるリーグ戦の開始など、その中心となったのは学生野球であり、そこで活躍する選手達は全国から集まった俊英達であった。後の稲門倶楽部、三田倶楽部は早慶戦が中止されていた間の代用としての人気であり、その根底に学生野球があったのである。後に現れる駿台倶楽部、法政倶楽部も学生野球の延長として見る事ができる。やがて学生野球が『権威』となり、『人気』を得て堕落し始めると、その浄化のために日本運動協会が生れたのである。

一方の関西においては、三高(現・京大)、同志社、関西学院、御影師範(現・神戸大)後には関西大などにおいて学生野球が盛んとなり、東京の大学に匹敵するほどのチームも出たが、クラブチームによる野球は古くから行われ、中等学校の野球大会も全国大会開始前から盛んであり、実業団野球大会も早くから行われていた。また早稲田、慶応出身者を中心としたスター、ダイヤモンド両倶楽部も、東京における稲門、三田がOBと現役のオール早慶であったのに対し、両校以外の出身者も多く、柔軟性があった。

これはもちろん、東京においては学生チームが最強であり、それ以外では強力チームをつくりようがないという実情があり、関西においては地元学生チームも強力でありながら、中等学校から活躍する選手が多く、また彼らの中には東京の学生野球で活躍してから帰省するものも多いという事情も反映した結果であろう。『権威』に集中する東京と、我が道を行く関西の違いでもある。

この事は視点を変えると、東京では学生野球のみ盛んであったが、関西においては野球人気が底辺にまで広がっていたともいえる。それは東京においては大学のグラウンド以外には芝浦球場(震災後閉鎖)と羽田球場ぐらいしかなく、関西では豊中グラウンド、鳴尾球場、宝塚球場、寝屋川球場、そして甲子園球場と東京を上回る大球場が次々に建てられた事でも推察できよう。

このような民衆の都、新聞王国、私鉄王国にして野球人気が底辺に広がる関西において大新聞社の資本を背景に、学生野球OBの名選手を集めたビッグクラブが誕生したのも必然かも知れない。この大毎野球団がどれほどのスター軍団だったのか、【毎日新聞50年史】の記載に基づいて入団順に見てみよう。

小野三千麿、大正10年入団。慶応卒。大和球士氏の【真説・日本野球史】によると、『一米七七、七五キロの均整のとれた堂々たる体格から、重い剛速球を投げ、絶妙のコントロールを伴って、ねらう球道を誤たなかった。右投手。』とある。大正8年の四大学リーグ公式戦に於いて、10月15日の法政戦、10月18日の明治戦とわずか中2日で2試合連続ノーヒット・ノーランという快挙を成し遂げ、また、大正11年には三田倶楽部の投手として大リーグ選抜戦に登板、戦前唯一の勝利投手となっている。実力的にも大リーグに劣らないといわれたニグロリーグのフィラデルフィア・ローヤル・ジャイアンツが昭和2年に来日した際には大毎のエースとして1失点に抑え、24戦23勝したジャイアンツ軍に唯一の引分を記録。まさに後の沢村栄治に勝るとも劣らない、戦前の日本を代表する大投手。都市対抗『小野賞』にその名を残す。野球殿堂入り。

森秀雄、大正10年入団。慶応卒。主将兼四番打者として大正8年の春秋連続全勝優勝に貢献。当初は慶応のエースとして活躍していたが、後に捕手として小野三千麿と組み、日本一のバッテリーと呼ばれた。

腰本寿、大正10年入団。慶応卒、三塁手。大正6年秋のシーズンでは首位打者に輝く。三田倶楽部では四番打者。大正10年、大毎入団後は主将として活躍。大正15年に慶応監督に就任、宮武三郎、山下実、水原茂らを率い、昭和9年までに7回優勝。野球殿堂入り。

岡田源三郎、大正11年入団。明大卒。早実時代は中等球界ナンバーワン捕手といわれたが、明大入学後は全ポジションをこなす万能プレーヤーであった。大正12年、明大監督に就任、同校に初優勝をもたらす。野球殿堂入り。

渡辺大陸、大正12年入団。明大卒。明治大学野球部史が『怪投手』と記する剛球投手。大投手、小野三千麿を上回るであろうほどの剛速球と無制球を併せ持ち、ノーヒット・ノーランも記録したが、四球と死球も数多い投手であった。前出の【真説・日本野球史】に「打者に背中を見せるように、身体をよじって横から投げるストレート」とある。元祖トルネード投法といえる。その剛球はサイン違いではとても受けられず、味方の捕手を2人もノックアウトしたこともあるという。まさに怪投手である。

湯浅禎夫、大正15年入団。明大卒。小野三千麿と共に大和球士氏が「大正時代の5大投手」と呼ぶうちの一人。剛速球と鋭いカーブに加え、大リーグ投手ペノックから伝授されたナックルボールを操り、大正12年秋に明大初優勝を成し遂げる。

他にも、大正10年に入団した慶応の鈴木関太郎(小野三千麿の紹介で大正12年から日本で2番目のプロ野球団、天勝野球団の捕手兼主将として活躍)。慶応の主将で名遊撃手として鳴らし、後に野球殿堂入りした桐原眞二。同じく慶応の主将で、大正11年に入団し、大正14年に慶応監督に就任した三宅大輔(野球殿堂入り)。慶応の遊撃手で一番打者の高須一雄。立教の中堅手で一番打者の二神。小野三千麿の後に慶応のエースとなった新田恭一。慶応の強打者、菅井栄治。大正15年に入団した明大の四番打者、大門憲文。同じく二塁手、横沢三郎(野球殿堂入り)、捕手、天知俊一(野球殿堂入り)など、まさにスター軍団というべき陣容であった。

学生チーム最強の時代に突如生れたこの強力クラブチームは、大阪毎日新聞という大企業をバックにしていたこと、その試合目的が新聞の拡販の為の興行であったこと、そして集められた選手たちの顔触れからいっても実質的に『プロ』であるといっても差支えないであろう。事実、後のプロ球団、天勝野球団は大毎野球団の興行形式を真似ているのである。

【もうひとつのプロ野球】の中で元大毎野球団選手の菅井栄治氏は次のように語っている。
「社会部や運動部の記者もやりましたよ。でも、それはあくまでも建前だけのことで、本当の仕事は野球でした。あちこちの毎日新聞の販売店に頼まれて遠征し、地元のチームと試合をすると毎日新聞の部数がふえる、というわけです。当時はセミプロという妙な言葉がありましたが、われわれの気持ちもそんなところでした」