日本運動協会


芝浦球場

芝浦球場は、現在の東京都港区海岸町三−十四−三四、区立埠頭公園のあたりにあった。その完成は選手が採用されるよりも早く、大正10年3月13日には球場開きが行われている。その広さは六千余坪。ネット裏と一、三塁側の内野の3ヶ所にそれぞれ二千人入れる木造のスタンドがあり、ほかに外野の立ち見席をあわせると約二万人の観客をいれることが出来たという。

大正8年末に中野武二らの東京野球倶楽部が計画したという一万二千余坪、内外野に鉄筋コンクリートのスタンドという大球場に比べると随分こじんまりしたが、当時東京にあった球場といえば大学グラウンドを除くと京浜電車が明治42年、今の羽田空港の場所に作った4,900坪の羽田球場ぐらいであったから、東京初の本格的な球場といっても差し支えないであろう。中野武二らはその後、大正11年11月に現在の荒川区に20段の内野スタンドを持つ尾久球場を造ったが、経営難のため昭和2年に閉鎖となった。

芝浦球場の両翼は約90m。『野球界』に載ったイラストによると、ほぼ正方形のグラウンドに描かれている。現在の日本の球場には見かけないスタイルだが、ほぼ似たようなグラウンド形状の米大リーグ、フロリダ・マーリンズの本拠地プロ・プレイヤー・スタジアムが両翼100m、中堅132mなので芝浦球場の中堅は120m前後あったかと思われる。

このイラストによると周囲は木造の塀で囲まれており、左翼の塀の後は20m幅程度の浜があり、すぐ東京湾が広がっている。中堅後方のフェンス前に木造のスコアボード、右翼の塀の後ろにはテニスコートが五面描かれており、その後方には合宿所と思われる建物が建っている。

東田一朔氏がその著者【プロ野球誕生前夜】の中で当時を回想している。

『空気が澄み切っていて美味しかった。晴れた日、青い空の下に広がる紺碧の海を眺めながらの野球見物はとても今の球場からは想像もつかない。バックネット裏の木造スタンドは二十段もあったろうか。その三塁寄りのところには別のスタンドがあり、そこには「婦人席」と記されていた。陽射しの強い時にはパラソルが朝顔の花のように色とりどりに開き、美しかった。確かこの婦人席は男子禁制で無料だったと記憶する。女性も見物に来てくれなくては野球は栄えない。女性が女友達を誘って見物に来てくれれば、そのうちに男性も同伴してくれるだろうという、長い目で見ての営業政策だったようだ。いずれにせよ長期展望に立っての見識ある経営であったと言っていいだろう。』

『左翼のポールの下にはタバンの時計の描かれたブリキ板が掲げられており、これにぶつけたホームランはタバンの金時計が貰えることになっていた。貰った人があるともないともいわれているが、これはタバンの橋本専務が河野、押川の友人だったので、二人が頼んでそういうことにしたものらしい。今なら有料でも効果のある宣伝になるということで業者が殺到するところだろうが、当時はそんなことを夢にも考える人がなかったようである。要するにタバンのサービスだったわけである。』

球場開きは三田―稲門戦であった。まだ早慶戦は中止されたままである。野球ファンの願いであった早慶戦復活に向けて、双方のOBクラブチームである三田倶楽部と稲門倶楽部が、芝浦球場が出来たのを機会に現役選手3人まで出場させて対戦したのである。当日、新設の芝浦球場は早慶両校のファンでふくれ上がった。この時の始球式を後藤新平がフロックコートにシルクハットで颯爽と行って満場の拍手を受けたという。この三田―稲門戦の収益の半分が日本運動協会の取り分であり、貴重な収入源となった。

芝浦球場が出来た頃に、それまで野球に関係のなかった退役軍人や華族、財界人が発起人となった「株式会社日本大野球団養成所」の設立計画が発表された。その株式募集勧誘状には「方今(このかた)学生団の対抗試合一回でも一万円内外の入場料ある次第ですから、将来は一層有望なる事業であります。方今外人団と対抗試合の節には、関西、北海道の遠方より態々(わざわざ)上京見物者があります。其熱心の度は、到底芝居や相撲の比ではありません」とある。

生徒100人を募集し、アメリカから招いたコーチに仕込んでもらってから一年間のアメリカ遠征をし、成績の良いものを卒業生として採用するという計画であった。日本運動協会の設立と米大学チームの試合の盛況に刺激されたのであろう。しかし肝心なところはアメリカのコーチ任せ、養成学校や球場の用地計画などは詳しく決められていなかったようである。日本運動協会の6倍近い50万円の資本金が予定されていたこの計画は、結局実現しなかった。

芝浦球場が三田−稲門戦で賑わうにつれ、日本運動協会野球チームは「芝浦協会チーム」あるいは単に「協会チーム」と呼ばれるようになった。その頃、14人の見習選手たちは練習と勉学に明け暮れていた。山本栄一郎と片岡勝はしばしば他チームの助っ人として試合を経験する事を許されたが、協会チームとしての試合はまだ許されていなかった。

いつまでも試合をやらない協会チームに対して、「何をやってるんだ。どことやっても勝てそうもないんで、試合をやらないんだろう」「早稲田の二軍とやっても勝てないので河野、押川、橋戸の早大先輩がやらせないのだよ」という声がささやかれていたという。「自分たちの力がどこまで通じるか、一日も早く協会チームとして試合をしてみたくてたまらない毎日でした」とは【もうひとつのプロ野球】にある片岡勝氏の回想である。

いよいよ協会チームとして試合に臨んだのは約一年の合宿生活のあと、朝鮮、満州遠征からである。この時、最初の14人のうち黒田正平と奥村融が病気入院中のため不参加、あとから加わった尾崎昇治郎を合わせた13人は大正11年6月21日、押川清監督に率いられて東京駅を出発した。一行は遠征用に支給されたブルーの背広に紺のハンチングという晴れ姿だったという。ユニフォームも新調された。純白のユニフォームに純白のストッキング。左の袖には濃紺で「N・A・A」のマーク。ニッポン・アスレチック・アソシエーションの略である。

この遠征に先立って押川は選手一同に「7ヶ条の心得」を申し渡している。

一、   試合中、審判者の宣告には、規則に関する以外、絶対に服従し、万一われに不利の宣告ありたる時といえども、言論はもちろん、動作においても、決して不平がましき態度をなすべからざること。

二、   規則に関する事といえども、主将を通じてのみ交渉すべきこと。

三、   われ守備にあるときは、見方を激励する言葉以外、敵方を愚弄、軽蔑するがごとき言は決して口外せざること。

四、   われ攻撃にあるとき、コーチャーは味方の走者を補導なす事に全心をつくし、敵方を揶揄するがごとき事は言わざること。

五、   毎回交代の際は、直ちに駆歩をもって、迅速にその位置につき、またベンチに帰り来るべきこと。(交代のたびごとに、いちいち評議をなし、あるいは攻撃時の好機に会し、種々相談をなすがごときは、心得ある戦士の恥ずべきところ、軍議は前もって決し置き、戦いに臨みては、充分の自信と余裕をもって事に当るべく心掛くべきなり)

六、   旅行中は、各自単独行動(例えば地方友人等の招待などのごとき)は絶対に禁ず。団体の招待等は監督者の命に従うべし。

七、   酒類の飲用厳禁。(今回の旅行に限らず、本協会へ入会当時の誓約なるも、特に注意す。この禁を犯し、または運動協会選手として且つ運動家として恥ずべき品性上の問題を起こせるものあらば、即座に除名せらるるものと覚悟せよ)

今のプロ野球選手にも守ってもらいたいほどの「心得」である。あるいはこれを「管理野球」と捉えられるかもしれないが、「商売人野球」に対する世間の目が偏見に満ちている時代である。「本邦運動界の指南車」たらんとする協会軍の理念があらわれた「心得」である。単純な「管理野球」とは根底の部分がまるで違っているのである。そうしてこのような「心得」が出されるということは、逆説的だが当時の学生野球界がこの「心得」と正反対の位置にいたということになりはしないだろうか。

ともあれ協会軍は旅立った。彼等の理念と実力を世に問うために。