大毎野球団


プロか、非プロか

セミプロという言葉が出てきたが、当時は「半職業団」という漢字が当てられた。もちろんプロは「職業団」である。ではプロとアマの境界はどこにあるのか。現在であれば社団法人日本野球機構に加盟するチームがプロであると言えるが、プロの存在しない時代にその境界を見つけることは困難である。当時、クラブチームは言うに及ばず、学生野球の試合も入場料を取り彼等の収入としていたのである。そんな時に登場した大毎野球団は実質的には巡業型のプロ野球団の雛型であり、当時の野球界の中で彼等をプロと認識していたものがいたのも当然であった。

大正9年5月大毎野球団結成。当初監督は阿部眞之助であったが6月木造龍造に代る。主な選手は大正5年に入社していた日下輝、9年3月入社の内海寛。7月懸山憲一、9月井川完、澤東洋男が加わり、初年度は20勝4敗の成績を残す。この年の12月に河野、押川、橋戸らによる日本運動協会(芝浦協会)が旗揚げ、日本で初めて自らプロ野球団を宣言する。大毎と違いフランチャイズ型プロ野球団を目指していたがチームの実体はまだない。

10年、大毎は小野三千麿、鈴木関太郎を加え東上して早、慶、明と戦い早稲田にのみ敗れる。九州遠征し12戦全勝。森秀雄を加え満州遠征し22勝5敗1分。帰阪後来日していた全ハワイ、カナダ、シャマンインディアン、ワシントン大学、全ハワイスター各チームと対戦。12月、腰本寿が加わる。この年の成績は55勝9敗、一躍最強チームとしての評価を得る。

大正11年1月、岡田源三郎、棚橋朝太郎が加わる。2月台湾遠征、4月東上し慶、明に勝ち早に敗れる。5月北川一士、菅井栄治、高浜茂、村上彦次が加わり北海道に遠征。8月に満州朝鮮遠征し12勝2敗。大毎の少し前に芝浦協会が同じく満州朝鮮遠征して12勝5敗であった。10月には来阪した早大に勝利。三宅大輔が加わり東上し駿台倶楽部、慶応に敗れ稲門倶楽部、早稲田に勝利。自らプロを名乗る芝浦協会と初対戦し6−1で圧勝する。この時の大毎投手は井川。小野は9番二塁手で出場し本塁打を放つ。両軍は11月にも大阪・寝屋川球場で対戦し3−0で再度大毎が勝利。この時も投手井川、小野は3番一塁手。なおこの試合で大毎・北川が左翼柵外に寝屋川球場開場第一号本塁打を放っている。

この年10月30日「大リーグ選抜軍」が来日する。後に通算240勝161敗で野球殿堂入りするハーブ・J・ペノック(レッドソックス)「ピストルショット」と呼ばれた快速球のジョー・ブッシュ(ヤンキース)ジョージ・ケリー一塁手(ジャイアンツ)エミル・ミューゼル外野手など、当時の一流大リーガーが集められたまさに「米國大野球團」の名に恥じないメンバーであった。余談だが控外野手として若き日のケイシー・ステンゲルが参加している。後のヤンキースの名監督「常勝将軍ステンゲル」である。

11月19日、芝浦球場に於いて小野三千麿、森秀雄は三田倶楽部のバッテリーとしてこの選抜軍と対戦、これを五安打に抑え9−3で勝利するのである。これが戦前唯一の対米プロチーム勝利となった。『小野君はボディースイングの立派なことは勿論、速球といい曲球といいコントロールといい我々が接した日本投手の中では一番優れているように思う』(ホイト投手談・大阪毎日新聞)まさに大リーグ選手から日本一のお墨付きを頂いたのである。しかし『近く大阪で開戦するからその時は充分研究してかかろう』(同)

同月25日、小野三千麿は大毎野球団のエースとして再び大リーグ選抜軍と対峙する。なぜか森は遊撃にまわり捕手は井川。『米軍は調子を下ろしているという一部の悪洒落がヒドク肝にさわったと見え、やるわやるわムキになって打ちまくっていたばかりでなく思い切って盗塁をしていた』(大阪毎日新聞)試合は大毎が3回に5失策、8安打で一挙11点を奪われ25−5で大敗した。

ここで小野、森が三田倶楽部、大毎野球団の両クラブに所属していることを奇異に感じるかも知れないが、当時はチーム専属という意識はあまりなかったようである。三田倶楽部は慶応OBクラブでもあるから、同OBの小野、森が出場することはある意味当然ともいえる。関西においても大毎の三、四、五番打者がそのままダイヤモンド倶楽部の三、四、五番として出場したケースもあった。更に小野は前年2月から天勝一座の野球チームのコーチをしている。この頃大毎の監督が木下博士になる。

大正12年1月、小野は天勝チームのコーチを辞するのと交代に鈴木関太郎を推薦し、鈴木は以降天勝野球団の主将として活躍する。大毎は中国、九州に遠征。3月に内海深三郎、高須一雄を加え東上、明大に破れ稲門倶楽部に勝ち、芝浦協会と三度目の戦いを3−1で勝利。『(協会軍が)大毎チームの域に達するには、猶々時日を要する』(野球界)しかし3月の天勝野球団との初試合では2−3と破れてしまう。続く第2戦では勝利し対戦成績を1勝1敗とするがこの2試合について『毎日新聞50年史』は触れていない。

この年の5月には天勝野球団主将となった鈴木関太郎が雑誌「野球界」にプロ宣言といえる「斯界に雄飛せんとする天勝野球団」という一文を寄せている(前掲「天勝野球団・プロ宣言」)そしてその天勝野球団は『現在大阪毎日が取り来たってゐる形式で』即ち大毎野球団をモデルにしているというのである。同月、築地市立運動場で「極東競技選手権大会野球競技」が行われ、「プロの大毎に参加資格があるのか」という大論議が起きた。結局「極東大会」日本代表はダイヤモンド倶楽部となったのであるが、小野、森、菅井、内海の各選手がその一員として参加している。

同年7月、大毎前監督木造龍造は「野球界」に「極東大会を機会に大毎野球団の立場を明らかにす」という一文を載せる。野球団員も普段は新聞社の仕事をしていること、遠征の際の出張旅費や日当は社の規定通りで噂される野球手当てのようなものはないこと、つまりは大毎野球団はプロではないということを強調したのである。天勝野球団が『プロ宣言』ならばこれはまさに『非プロ宣言』であった。もっともその実体は前述した菅井栄治氏の証言通り、プロといってもおかしくないものであった。

プロ野球団のない時代に大毎野球団が誕生し、その後芝浦協会、天勝野球団と自らプロ野球団を名乗るチームが登場すると、ここにプロとアマを分ける一つの境界線が生れた。即ち『プロを自称すればプロ』なのである。自らプロを否定した大毎は実業団チームとなった。逆にいえば大毎がプロを自称すれば日本初のプロ野球団の名誉は大毎野球団のものとなっていたであろう。

ではなぜ大毎はプロを名乗らなかったのだろうか。社史を見る限り大毎=東日はライバル大朝=東朝よりも運動に力を入れている新聞社である。その大毎をしても商売人野球と呼ばれることはイメージダウンになると判断したのであろうか。当時の大毎=東日は日本一の座を大朝=東朝と争う大新聞社であり、リスクを避けたのかもしれない。しかしもっとも大きな要因は、『芝浦協会』を立ち上げた河野、押川、橋戸、『天勝野球団』の野呂辰之助、『宝塚協会』を支えた小林一三といった職業野球に理念と信念を持った人物の不在であると思われる。大阪毎日新聞社にとって野球チームは企業宣伝の域を出なかったのであろう。

大毎野球団は極東大会で日本チームを破ったフィリピンチームに善戦する。その試合が評価され上海米人団の招聘を受け、6月に遠征し5勝1敗の成績を残す。7月山陰遠征、8月渡辺大陸を加え、満州朝鮮遠征を計画したが関東大震災の発生により中止。天勝野球団はこの頃消滅。10月朝鮮遠征、11月北陸遠征。

明けて大正13年2月26日、関西にはじめてのプロ野球団『宝塚運動協会』が現れた。震災の影響で前月23日に解散していた芝浦協会の新しい姿である。関西の早慶戦として人気のあったスター倶楽部―ダイヤモンド倶楽部定期戦に加え、この後の関西野球界をリードする大毎―宝塚時代が始まろうとしていた。