日本プロ野球前史


明治の野球
(野球伝来〜一高全盛時代)


文化・文明と呼ばれるものが発展する為に重要な役割を果たすものが『交通』と『情報』である。西洋からもたらされる『情報』が蘭学を生み、やがて世界に目を向ける人たちの手で明治維新が成し遂げられたのである。庶民の生活意識に至るまでの大きな価値観の変動が短期間で行われるというのは、歴史の中でもそう多く現れる訳ではない。多くの国では、革命や独立運動という形であらわれる。日本では史上2回しかない。そのうちの一つ、それが明治維新である。

欧米列強のアジア進出が進む中で当時の明治政府は国力増進のために若き人材を留学させ、また欧米から多くの学者、技術者を招いて西洋先進国の科学技術を取り入れようとした。それが俗にいう『お雇い外国人』である。彼らの中には各地の学校で教鞭をとったものもいる。そうして彼らが日本に『スポーツ』というものを教えていくのである。

それでは日本に野球が伝わった最初はどこかという問題は、諸説あって確定していない。
以下は【白球太平洋を渡る】の中で紹介された諸説である。

現在の東大が発祥であるとする説は、明治41年、雑誌『運動界』の「本邦野球沿革史」に「明治6年に開成校でウィルソン、マジェットの二米人が生徒に教えた」とあり昭和4年に発刊され最近復刻された【日本野球史】にも同様の記載がある。しかしお雇い外国人研究とウィルソンに教えを受けた一生徒の文章(「日本」明治29年7月22日)の発見により明治5年、ウィルソンが単独で伝えたという説が定着した。

現在の北大が発祥の地であるとする説は開拓使仮学校の教師、ベイツが明治6年ごろ生徒に野球を教えて試合をしたという記録があり、『試合をしてこそ野球』という観点からこれをもって日本の野球の始まりとするというものである。

更に明治4年ごろに開校された熊本洋学校でジョーンズ教師が教えたとする説もある。
ともかくお雇い外国人教師の手によって明治5、6年ごろに日本に野球が紹介されたのは間違いないようである。

しかしながら当時はまだ『スポーツ』の概念がなく、弓や鉄砲と同じで、ボールをぶつける事や的を外さぬ事が時には主眼であるといわれ、まさに西洋の武芸十八番だと思われていたが、【ベースボールと日本野球】によると明治9年には最初の日米野球が行われ、同年12月23日の『ニューヨーク・クリッパー』紙にスコアが紹介されている、とある。この試合の事かどうかは確認出来ないが【日本野球史】に同じ時期に横浜居留地の外国人チームとわが国初の国際試合が行われたという記載がある。この試合に雷大臣といわれた仙石貢氏と講道館の総帥、嘉納治五郎氏が応援団の隊長で臨んで、肘を張り、肩をいからせて騒いだらしい。

明治政府によって欧米に留学し、後に帰国して野球を伝えた人もいる。それが平岡煕(ひろし)である。明治4年、16歳で渡米し、現地で見た汽車と野球に夢中になってしまった彼は、帰国して新しい『交通』である機関車製造の技術を生かすために明治11年新橋鉄道局に就任し、そこの鉄道技師などで日本初の本格的野球チーム『新橋アスレチック倶楽部』を結成する。ユニフォームを作ったのもこのチームが初めてであり、平岡煕は日本で初めて『カーブ』を投げた人物でもある。ほぼ同時に平岡が英語教師をする三田の徳川達孝伯爵が『徳川ヘラクレス』という野球チームを作る。ここのユニフォームは真っ赤なものとグリーンもものが作られ、いざ試合となると赤組青組に分かれ鮮やかであったという。初期の日本の野球はこの両倶楽部かリードした。

やがて工部大学、駒場農学校(ともに後の東大)東京英和学院(後の青山学院)、波羅大学(後の明治学院)、立教などにチームが組織されると主役は学生チームとなっていく。工部大学はやがて東京法科大学の予備門と合併して第一高等中学校(一高)と称するようになる。このころ一高に野球に夢中になる青年が入学する。

『久方のアメリカ人のはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも』

俳人、正岡子規である。彼は自らチームに加わり捕手として鳴らし、時には投手もつとめた。彼はプレイだけでなく詳しいベースボール論も残している。また、明治23年、友人にあてた手紙で本名の升(のぼる)をもじって野(の)球(ボール)という雅号も使っている。これが初めて野球という言葉が使われたものであるが、子規がこれをベースボールの訳語と考えていなかった事は後の彼自身の文章に『ベースボールは未だ曾て訳語なし』と記しているのを見ても明らかであろう。当時和歌に凝っていた子規の詠んだ歌である。

『九つの人九つのあらそひにベースボールの今日も暮れけり』
『今やかの三つのベースに人満ちてそぞろに胸の打ち騒ぐかな』
『打ち揚ぐるボールは高く雲に入りて又も落ち来る人の手の中に』

『野球』の命名者は子規の後に一高に入学した中馬庚(かのえ)である。明治27年当時一高の監督をしていた時に考案した。命名の瞬間というべき記載が『日本野球創世記』(君島一郎著・ベースボールマガジン刊)にある。(注;【われら野球人】より孫引き)

「明治27年の秋、ある晩のこと、青井が寄宿舎の片隅で彼の得意のバット『千本素振り』をやっていると、中馬庚が息をはずませてやってきて『青井。よい訳を見つけたぞ。Ball in the field ― 野球はどうだ』」

さて明治20年ごろに強チームとされていたのは農学校、波羅、東京英和、慶応など数校の選手からなる『溜池倶楽部』、波羅大学の『白金倶楽部』、『駒場農学校』などであるが、明治23年4月、『白金』対『駒場』の対戦で破れた白金は態勢を整えるべく、まずは第一高等中学校に対戦を申し入れ同年5月2日、一高向ヶ丘グラウンドで試合が行われた。一高は柔道部の猛者連などの応援団が見守る中、6回を終えて0−6と劣勢にたたされていった。その時、遅れたために塀を乗り越えてグラウンドに入ってきた波羅大学神学教師のインブリー氏を見つけた一高猛者連が彼を取り囲み暴行を加えるという暴挙に出たのである。これはあわや外交問題に発展しかねないほどの大事件であった。これが『インブリー事件』である。

この事件の背景には、同年3月から一高が全寮制となっていたことが一つの要因である。彼らにとってはその塀は世間から切り離し、将来国家を担う責任を与えられた場所を示すものである。この頃になると国家主義的傾向が強くなっており、彼らのエリート意識と相まってバンカラ校風も強くなっていたのである。対する波羅大学はアメリカ人私塾から発したキリスト教系の学校でその校風もハイカラと一高とは対照的であった。自らの正反対とも思えるチームに苦戦を強いられ、エリートとしての存在価値を示す『塀』を外国人にやすやすと乗り越えられたという強烈な屈辱感がこのような事件に結びついたのであろう。このバンカラ官学対ハイカラ私学の対照は関西においても三高(後の京大)対同志社で同じように現れている。

この事件は一高の野球を『校技』に位置付け、全寮あげて名誉挽回のために従来の弄球快戯的なものを捨て、悲壮な覚悟を持って猛練習に励んだ。彼らのエリート意識は寮生にあてた檄文で『第一高等中学が全てのものに優位にたたねばならぬ』と論じるほどであった。つまりこの事件こそが精神野球の始まるきっかけとなったのである。明治23年11月にはついに白金を破り、更に12月には溜池にも大勝し、翌年、白金・溜池連合軍を破ると一高精神野球は国内に敵なしという状態になった。

日清戦争(明治27.7.25〜28.2.2)戦勝の余韻覚めやらぬ明治29年5月23日、横浜外人アマチュア倶楽部と日米試合を行い、これを破ると6月5日に再戦し勝利、6月27日の米国東洋艦隊デトロイト号の乗員との試合にも勝利と外人チームに三連勝し、7月4日のオリンピア号乗員チームには敗れたが、これらの試合は新しい『情報』である日本の諸新聞が報道し全国に野球熱を広げたのである。そして、この一高野球が中学に指導され、その影響を受けた選手が進学してまた一高野球を広めるという具合に、一高精神野球は日本の野球の主流となっていくのである。


西暦 年号 野球史 社会史
1868 明治元
(慶応4)
1.3鳥羽伏見の戦い〜4.11江戸城無血開城〜
5.15上野、彰義隊との戦い〜5ー7長岡城の戦い
〜8ー9会津の戦い(白虎隊の悲劇)
9.明治と改元
10.東京遷都
1869 明治2 1.磔(はりつけ)と火あぶりの刑を廃止
5.五稜郭の戦い、戊辰戦争終結
電信開通
1870 明治3 8.13童男女売買の禁止
9.19平民に苗字を許可
12.24庶民の帯刀の禁止
12.8最初の日刊紙「横浜毎日新聞」創刊
1871 明治4 10.『和訳英辞林』発行。ベースボールの訳は
「玉遊ビ」
平岡煕(当時16歳)渡米する。
7.14廃藩置県、3府(東京、京都、大阪)302県
8.9法令「四民の斬髪脱刀勝手たるべし」
8.17「切棄御免」の禁止
1872 明治5 大学南校(現・東大)教師ウイルソンが生徒に
野球を教える。
9.12新橋―横浜間に日本初の鉄道開通
12.太陽暦採用
1873 明治6 開拓使仮学校(現・北大)の教師ベーツが生徒
に野球を教え、ゲームを行う。
1.徴兵制実施
2.7復仇(かたきうち)の禁止
3.3明治天皇、御断髪
6.6全国の目安箱を廃止
小林一三生まれる
1874 明治7 8月の『新聞雑誌』の記事より
「全国人民の頭髪今に一定せざるのみならず(略)
漸々旧に復し(略)追々結髪するもの日に多し」
読売新聞創刊
1875 明治8 2.13太政官令にて苗字を強制
6.28新聞紙条例
8.14人身質入の禁止
1876 明治9 日本人学生チーム、初めてアメリカ人チームと
対戦する
3.28帯刀の禁止
三井銀行(初の私立銀行)創業
1877 明治10 平岡煕帰国 2〜9.西南戦争
電話開通
1878 明治11 平岡煕、新橋アスレチック倶楽部結成
同時期、徳川ヘラクレス結成
5.7きょう示の刑(さらしくび)の廃止
1879 明治12 10.8拷問の廃止
大阪朝日新聞創刊
1880 明治13 平岡と面識の会ったスポルディングから新橋
倶楽部に野球用具一式とルールブックが届く
春、松旭斎天一一座旗揚げ
1881 明治14 11.日本鉄道会社設立(日本初の私設鉄道会社)
1882 明治15 新橋倶楽部、専用グラウンド「保健場」
を持つ。(レクリエーション・パークの訳)
日本銀行設立
1883 明治16 東大教師F.W.ストレンジ、野外スポーツの実際
を紹介した『アウト・ドア・ゲームズ』を出版。
1884 明治17
1885 明治18 この頃『溜池倶楽部』出来る
3.下村泰大『アウト・ドア・ゲームズ』を訳した
『西洋戸外遊戯法』を出版。ベースボールを
「打球鬼ごっこ」と訳す。
正力松太郎生まれる
南海鉄道開業
1886 明治19 波羅大学(明治学院)白金今里町に移り『白金
倶楽部』と呼ばれる。
1887 明治20 新橋倶楽部解散 5.私設鉄道条例
1888 明治21 4.3政教社同人、欧化熱の反動として国粋保存の
雑誌『日本人』を発刊、翌年2.1新聞『日本』発行
大阪朝日、東京に進出し東京朝日新聞発刊
大阪毎日新聞創刊
1889 明治22 春、一高、本郷向ヶ丘に移転 2.11大日本帝国憲法発布
7.官設鉄道、東海道線(新橋ー神戸)全通
12.決闘の禁止
1890 明治23 3.一高、全寮制(自治寮)になる
5.一高対白金『インブリー事件』起きる
教育勅語公布
帝国議会の開設
8.軌道条例
1891 明治24 この頃から一高最強時代になる 3.9西洋かぶれの過度なるに憤起、国粋維持の
国体保維有志大懇親会が開かれる
1892 明治25 6.鉄道敷設法公布
1893 明治26
1894 明治27 秋.中馬庚、ベースボールに『野球』という
訳語を与える
7〜翌2.日清戦争
1895 明治28 2.一高「野球部史」にて初めてベースボールを
『野球』と訳した文章が出る。
2.京都電気鉄道開業
4.下関条約、三国干渉
9.中井かつ(後の松旭斎天勝・当時11歳)天一一座
に入る
1896 明治29 5〜6月.一高、外国人チームに3連勝する 10.東武鉄道設立
1897 明治30