日本運動協会


協会軍デビュー

大正11年6月21日、東京駅を出発した協会軍は30時間後、下関に到着。更に関釜連絡船で朝鮮半島へと渡った。6月23日未明の対馬海峡は荒れ模様で、選手たちに船酔いが続出した。釜山到着は午前9時。その日の午後にはもう現地の日本人チーム、全釜山と対戦した。

さすがの協会軍も疲れと船酔いの影響でエラー続出、エース山本が先発し本塁打も打ったが4−5で記念すべき日本プロ野球団の初試合を勝利で飾る事は出来なかった。この後、デグ−ソウル−仁川−平壌−長春−奉天−旅順−大連と転戦した。満州最大の強敵は、のちに初期の都市対抗で交互に優勝したほどの強豪、大連実業団と大連満州倶楽部。大連実業には1勝2敗、大連満倶には1勝1敗。7月19日までの27日間で11チームを相手に17試合、12勝5敗の成績であった。

各地で協会軍は人気を得て、どこの球場もほとんど満員だったという。選手達のキビキビした動きは「なるほど、これが職業野球というものか」と、物珍しさも手伝って集まった観客を魅了した。押川はその人気を『野球界』に「東京相撲の栃木山、大錦一行とソウルで一緒になったが、野球に圧倒されて午後四時までに打ち揚げてしまう」と書き送っている。つまりは四時から野球の試合が始まるからであり「大連あたりでは、家族打ち揃って、野球見物に来る」という状況であった。大陸のほうが「商売人野球」に対する偏見は少なかったようだ。

なお、朝鮮遠征中に孫孝俊がメンバーに加わっている。彼は朝鮮人で身長が180cmを越す協会軍ではずば抜けた大男で、強肩強打の外野手であった。片岡勝氏によると、当初「朝鮮人なんか」という見下す空気がナインの中にあったそうだ。しかし、わけへだてしない河野や押川の態度に教えられ、やがて孫を差別するようなことはなくなったという。『朝鮮人を差別する事の愚かしさをわれわれに教えるため、押川先生はわざと孫を加入させたのかも知れません』【もうひとつのプロ野球】


第一回朝鮮、満州遠征 打撃成績
選手 打率 本塁打 三塁打 二塁打
清水 鷹治郎 .420 1 4 8
孫 孝俊 .310 3
原山 芳三郎  .290 2
尾崎 昇治郎 .290
山本 栄一郎 .280 4 4 3
小玉 与太郎 .240 3
大賀 六郎 .220 1 4
御所名 映二 .180 2
片岡 勝 .150 2
小沢 寛 .150
大井手 東繁 .050
打率は小数点2桁まで【もうひとつのプロ野球】より


遠征を終えて7月25日に芝浦球場に帰ってきた彼らは、10日間の慰労休暇のあと、8月11日から軽井沢で合宿中の早稲田野球部第二チームに合流した。ここでの早稲田二軍との練習試合は5試合、第一戦は9−3で協会、第二戦は5−1で早稲田、第三戦5−1協会、第四戦4−1早稲田と伯仲し、第五戦は9−8で協会軍が勝利した。そのあと軽井沢にやってきた強敵、三田倶楽部とも戦い、5−4で勝利する。更に全長野に1−0、軽井沢外人団に11−5と連勝した。

この間、早稲田野球部長として協会軍を観察してきた安部磯雄は、そのチーム力もさることながら、キビキビした攻守交代、判定に不満な態度ひとつ見せないいさぎよさ、日常生活での礼儀正しさにすっかり感心してしまった。「これならきっと学生野球の模範になるプロチームに成長するでしょう」といって「今度は早稲田第一チームがお相手しましょう」と申し出たのである。

当時の早稲田大学はまさに人気、実力、ともに日本一のチームといって差し支えないであろう。エースは谷口五郎、大和球士氏が『大正時代の5大投手のひとり』と呼ぶ天才左腕投手(殿堂入り)。大正10年秋、久慈次郎(殿堂入り)との黄金バッテリーで四大学リーグに完全優勝。このあとの11年秋の5大学リーグでも完全優勝を遂げる。主砲は田中勝雄(殿堂入り)、通称ベーブ田中。1300gの重量バットをフルスイングしてしばしば外野柵越えホームランを放ち、ホームランの魅力をファンに知らした日本最初のホームランバッターである。対する協会軍の選手はほとんどが早稲田選手よりも年下であり、まさに王者に挑む新人であった。

大正11年9月9日、その日はやって来た。大和球士氏が『日本におけるプロ初試合』と呼ぶ早稲田大学対芝浦協会の試合である。午後3時12分にプレーボールとなるこの試合に、正午からファンが押しかけ、定刻前にスタンドは埋め尽くされ、外野にまで溢れる盛況だったという。入場料は一等一円、二等五十銭。早稲田監督は飛田忠順(穂洲)、ベストメンバーを組んで協会軍と戦った。


早稲田ー芝浦協会戦、メンバー
先攻 後攻
早稲田 協会
久保田 禎 小玉 与太郎
堀田 正 原山 芳三郎
有田 富士夫 山本 栄一郎
田中 勝雄 清水 鷹治郎
永野 重次郎 孫 孝俊
谷口 五郎 片岡 勝
松本 終吉 大賀 六郎
梅川 吉三郎 大井手 東繁
加藤 高茂 尾崎 昇治郎


試合経過
早稲田 協会
1回 先頭久保田、四球で出塁、堀田送りバント投飛となり、続く
有田も中飛。4番田中左中間2塁打で二死2,3塁となるも、
永野が捕邪飛
谷口、立ち上がりから好調で小玉、原山、山本三者連続三振
2回 二死後梅川一ゴロ失で出塁。加藤中前打をセンター大賀
ファンブルする間に梅川は3塁へ。久保田は三振。
清水三振、孫一ゴロ失、片岡、大賀連続三振
3回 先頭堀田、中堅右へ二塁打。有田の投ゴロの間に飛び出
した走者を2,3塁間で挟殺。田中四球で一二塁。永野左飛
谷口右飛。
この間、打者22人、三振9、ノーヒット
4回 松本中前打、梅川のライナーを二塁手大井手好捕し併殺
5回 一死二塁で田中、右飛に倒れる
6回 1四球のみ
7回 三者凡退
8回 三者凡退
9回 三者凡退
10回 先頭久保田、投手強襲安打。慌てた山本が一塁に悪送球
無死二塁となる。堀田送りバント、山本判断よく三塁に送り
一死一塁。有田二ゴロで堀田は二封、二死一塁。有田盗塁
を決めて二死二塁。田中、左中間二塁打で有田生還。
山本三振、清水投ゴロ、孫三振でゲームセット

協会軍のエース、山本栄一郎のピッチングは片岡勝さんによると『サイドスローだから阪急の山田久志投手と投げ方はちょっと違うが、小さな体で粘り強いピッチングをする点で、山本は阪急の山田に似ていた』そうである。立ち上がりは硬くなってピンチを招いたが、徐々に調子を上げて強敵早稲田に立ち向かった。決勝点となった場面は二死二塁で日本を代表する打者のベーブ田中、当然敬遠ということが考えられる。実際山本は河野監督に指示を仰いだそうである。河野の答えは『敬遠は卑怯だ。武士道に反する』。このチームは勝つだけでは許されない使命感を持っていたのである。

翌日も早稲田と対戦し、0−4で連敗した。しかし強敵早稲田に善戦した事で協会軍は一躍有名になり、各地のクラブチームから対戦の申し込みが相次ぐようになった。9月17日には横浜公園球場で横浜巨人軍と対戦、延長11回3−2で横浜巨人軍のサヨナラ勝ち。球場は満員の盛況だったという。一週間後の9月24日には横浜巨人軍を芝浦球場に招いて再戦、超満員の芝浦協会ファンの見守る中、9−0で雪辱した。

10月31日、芝浦球場に早稲田に勝るとも劣らない強力チームが来襲した。『大毎野球団』。大正時代の5大投手のひとりにして、戦前唯一の米大リーグチームに勝った男、小野三千麿(殿堂入り)をエースに、大学出の有名選手を集め、『日本のビッグチームのひとつ』と呼ばれたチームである。このプロとも実業団ともつかない強力チームは、エース山本から小野、森秀雄(殿堂入り)、菅井栄治が本塁打を放ち6−1で協会軍を一蹴した。

大毎に完敗した協会軍は関西遠征へ向う。待ち受けていたのは慶応系の『ダイヤモンド倶楽部』。早稲田系の『スター倶楽部』とともに関西実業団チームがまったく歯が立たないという強力倶楽部チーム。協会軍は11月4日の緒戦に0−2と敗れた。翌5日の2回戦で2−1と雪辱したが小兵の左腕に10三振を喫する。その投手の名は浜崎真二(殿堂入り)。結局、この関西遠征ではダイヤモンド倶楽部に1勝1敗、スター倶楽部には5−6で敗れ、帰阪した大毎野球団に0−3と再度完敗、京都巨人軍には2−2の引き分けとあまり芳しい成績ではなく、関西での人気ももうひとつであった。

大正11年の早稲田戦以降の協会軍の成績は11勝7敗3分け。プロを名乗るにはいささか寂しい成績である。大正12年が明けると1月10日から2月4日まで、協会軍は奈良市春日野グラウンドで強化合宿を実施した。この合宿の前に、長芝(投手)、西村(捕手)、須佐(外野手)が新入団、矢田真太郎が退団し総勢16名となる。この合宿の頃、協会設立の中心メンバーのひとり、橋戸信(頑鉄)が協会を辞めた。彼はその後スポーツジャーナリズムの世界で活躍する。のちに彼が手がけた都市対抗野球は、学生の日に見た『フランチャイズを重視する』アメリカベースボールの再現であったのだろうか。

強化キャンプの成果を見せたのは2月11日の稲門倶楽部戦、昨年の早稲田チームのメンバー、久保田、田中、堀田らが参加していた。この試合で山本は本塁打、三塁打で打点2、投げては6安打1失点に抑え3−1で快勝した。3月22日には早稲田と3度目の対戦を行ったが1−5で完敗、対早稲田3連敗となった。『協会は早稲田に勝てない』とファンは感じはじめ、3月25日の対早稲田第2戦には日曜にも関わらず観客は少なくなっていたという。この試合で奮起した協会軍は8−2で早稲田に圧勝する。

3月31日、またも東上して来た大毎野球団に1−3で敗れる。これで三連敗。『まだ大毎チームの域に達するには時日を要す』と評される。4月は米国東洋艦隊ヒューロン号野球団に10−7、法政OBの法友倶楽部に8−2と勝利。5月は函館太洋倶楽部に招かれ、北海道遠征に出る。名将久慈次郎率いる函館太洋は強く、0−2、2−9、2−4と三連敗、四戦目でやっと2−0と勝利する。函館太洋には1勝3敗となったが、結局北海道遠征は4勝3敗1分けであった。

北海道からの帰り、仙台で早稲田との対戦が実現した。3月の対戦では1勝1敗、決着をつける第三戦である。満員のスタンドで協会軍は六回表降雨コールドながら3−1で早稲田を破り、遂に2勝1敗と勝ち越したのである。そうして6月18日、二度目の大陸遠征に向う。そこには強敵が待ち構えていた。協会軍が3度戦い3度敗れた大毎野球団を破り、先に遠征していた大陸で21勝1敗と無人の野を行くがごとき快進撃。自らプロを名乗るもうひとつのチーム、天勝野球団である。