天才起業家・小林一三


アイデアの神様

河野と日本運動協会を受け入れた小林一三とはどういう人物であったのか。阪急電鉄、阪急百貨店、宝塚歌劇団、東宝映画、その他阪急グループの創始者であり、『天才起業家』『アイデアの神様』と呼ばれたその足跡を簡単に振り返ってみよう。

小林一三は反官、反権力の人である。明治6(1873)年、山梨県韮崎に生れ、慶応義塾で学び、三井銀行を経て明治43(1910)年、箕面有馬電気軌道(現・阪急電鉄)を設立する。

「僕は青年時代から慶応で独立独行と云ふことを教へられて来たのだが、僕の社会生活は即ちそれだ。僕は人にお世辞を言はず、愛想を言はず、いつでも言ひ度いことを言つてしまふので人から愛されたことがない」(『私の生き方』)

「われわれから言へば、京阪神といふものは鉄道省にやつて貰はなくてもよろしい。そんなことは大きにお世話です。われわれがどんなにでもして御覧に入れます」(『交通問題を中心にして』)

「『もういろんなことを言はないでおいて下さい。僕等は鉄道省へ行つてヘイコラしていなければ憎まれて困りますから』と言ふ。意気地のない奴ばかりだ。僕等は生れが銀行で畑が違ふけれども、阪急を創立してからでも、鉄道省へも内務省へも逓信省へもヘイコラしたことはない。そのかはりどこのお情けにすがつたこともない。どこへ行つたつてケチなことは言はない。それで来ているから、どこでも憎まれている」(『交通問題を中心にして』)

この小林の反官思想の象徴が、官営鉄道の東海道本線の上にかかる梅田の跨線橋である。当時この線を越えられた私鉄は一つもなかった。権力の象徴のような官営鉄道の汽車(当時未電化)の上を箕有電軌の電車が見下ろしながら走るのである。小林は次のような唱歌を作詞し沿線の小学校に配り、また、遠足に来た小学生に歌わせたという。

東風(こち)ふく春に魁(さきが)けて 開く梅田の東口
往来(ゆきか)ふ汽車を下に見て 北野に渡る跨線橋

(『箕面有馬電車唱歌』一番…全部で十五番まであった)

開業とともに小林のアイデアは止めどなく溢れてくる。後発の為、郊外に路線を引かなくてはならなかったことを逆手に取り、宅地を開発し、日本初の住宅の月賦販売を成功させる。その頃の宣伝コピーに『最も有望なる電車』『綺麗で早うて、ガラアキで眺めの素敵によい涼しい電車』とある。駅の有料広告さえなかった時代、今では当たり前となっている電車の中吊り広告を考え出したのも小林一三である。

さらに当時としては画期的な八十銭均一ストアを成功させ、世界初の鉄道会社経営のターミナルデパートをつくり、大食堂では高級料理やハイカラな洋食を庶民的な価格で提供した。当時のテーマパークといえる宝塚新温泉ではこれも世界初の少女歌劇を組織し、自ら脚本を書くほどであった。この宝塚では大阪の名店といえる料亭を出店させているが、権利金を取らず、家賃も取らず、安い歩合制だけにする代わりに本店以上のサービスを求めた為に、大評判を呼んだ。さらに請われて東京電灯(現・東京電力)の再建を成し遂げる。

小林のアイデアを得て成功したのが日本初のビジネスホテル『第一ホテル』である。土地の活用を相談に来た味の素社長鈴木忠治らにサラリーマン出張用のホテルのアイデアを出している。

「敷地いっぱいに8階建てを造ると550室は取れる。シングルルームを主とする。このホテルは出張者を相手にするから朝食は混むが夜は少ない。夜の食堂は他の人を入れる。宴会場なんかあまりつくらない方がよい。シングルルームは東京−大阪間の寝台料金と同じにする。ルームメイドは帝国ホテルがひとり10室受け持っているならこのホテルはひとり25室受け持たせるといったように人員を少なくする。だから経費も少なく、飲食からの利益をあてにしなくても開業当初から一割配当ができる。」

「必ずうまくいく。だがサラリーマン以外に客をとろうとして、部屋を豪華にしたり、二人部屋をたくさんつくったら駄目だ。東京に出張してくるサラリーマンだけ狙う。それも冷暖房で外国のホテルに負けないサービスをする。このホテルの経営はプロではいけない。全くの新しい経営法によるホテルなのだから、古い水に染まった人ではいけない。社長も未経験者、ついでに支配人も素人にしたまえ。そうすればきっと成功する。」

すべて小林の言う通りにして大成功を収めた第一ホテルの社長、土屋計左右は「僕は生涯において小林さんほどアイデアのある人は他に見たことがない。」と口癖のように言っていたという。しかし小林はこの事業のアイデアを出しただけで経営には加わっていない。「私はかねがねこのようなホテルを作りたかったのだ。私のアイデアさえ実現できたら誰が経営しても、私はそれでよいのだ」という考え方であった。

逆に小林の忠告を聞かなかった例が日本劇場である。財界の大御所、渋沢栄一の甥、大川平三郎に頼まれ発起人に加わったが、いざ計画が進むと大川の独断専行で進められた。小林の「日劇は大衆相手の経営でなかったらうまくはいかないよ。だから最初からそういった設計にしなくては」という意見を無視して、1、2階を金持特権階級に、3、4階のみ大衆に開放するといった計画を進めていたのである。大川の子分には「小林なんかにこの東京での興行がわかってたまるか。所詮彼は女子供相手のことしか出来ない」といきまくものさえいたという。

さすがの小林もこれではどうしようもない。出資金を引き上げて自ら東宝劇場と日比谷映画劇場を建設した。有楽町の日劇、東宝の二大劇場の興行合戦は、いざ開場してみると日劇は惨憺たる営業、東宝劇場の少女歌劇公演は連日満員となった。日劇はボックス席10円、一等6円、二等4円、三等2円の高料金をそれぞれ6円、4円、2円、80銭に値下げし映画上映も行ったが、冷暖房完備の近代的設備の大映画館、日比谷映画劇場が50銭均一という低料金で開場したため、さんざんの成績となってしまった。

小林はこの日比谷映画劇場について次のように述べている。

50銭均一にしたのは、大衆によき映画をよき席で安く提供せんがためである。均一料金だから入場券売場も一ヶ所ですむし、案内係も少人数ですむ。また場内も等級による客の区別や整理をしなくてすむから人手が従来の映画館の半分ですむ。人件費が少なくてすむので、それだけ安い入場料でもソロバンは合っていく」

行き詰まった日劇は、恥をしのんで頭を下げ、小林に再生を依頼することになった。
小林が指示した日劇再建の営業政策は

1.     出し物が当ると儲かる、当らないと赤字が出るという今までのやり方はもう過去の劇場経営だ。当らなくても赤字にならない経営体にすべきだ。それには人件費やその他の経費を引きしめることだ。

2.     大衆相手の経営にすることだ。したがって入場券売場が各等別に5ヶ所もあるのを一ヶ所にすること。全館をボックス席も含めて50銭均一にすること。

3.     館内にある食堂とか喫茶室は、別に外から入れる出入口をつくって、外の客専門の営業にすること。大衆は館内でめしなど食べないし、またその暇もない。せいぜい喫茶室が一ヶ所あればよいだろう。

4.     50銭均一ときまったら、一日何千人入るか。一ヶ月の収入はいくらになるか。そのため経費はいくらにすれば採算がとれるか、すぐソロバンがはじける。それによって従業員数も電気代も広告費もきまってくる。それを最初から従業員を何人使わないと運営できないとか考えてしまってはいけない。

日劇はこの政策通り大衆路線にしてたちまち利益が出るようになった。昭和10(1935)年のことである。
ダイエーの創業者、中内功氏はその著書の中で次のように評している。

「関西商法の神髄をつかんでいたのは阪急電鉄の小林一三氏だった。実戦のなかから本質に迫り、これを現実にしていく、商人中の商人であった。彼は徹頭徹尾、大衆の動向を把握し、そこからマーケティングを進めた。…現実主義によって得たものを勇敢に、柔軟性ある決断力で実行していった数々の事業は、いまなお新鮮さを失わない」(『わが安売り哲学』)

そして小林一三は次のような言葉も残している。

「われわれの社会生活といふものは、自分さへ儲かれば他はどうなってもよいといふものではない。自由競争を基礎とする営利主義経済の組織に於ては、個別的利害の対立は止むを得ないにしても他を冒さずに自分の立つ道があればそれに越したことはなからう。5銭のキャラメルを4銭5厘で売る。それが百貨店である場合には、たとへキャラメルで損をしても、他の商品で儲けることが出来るから埋合せもつくが、それではキャラメル専門の小売店が助からない。・・・斯ういふ事は心ある百貨店の為すべき途でない。百貨店が価格の点で競争する場合はよろしく自分の手で、自分の工夫で、自分の設備で製造した商品に限らるべきである。」(『私の行き方』)

もちろん小林のアイデアすべてが成功したわけではない。箕面動物園や宝塚パラダイスなどは当初の思惑の外れたものである。しかし見込みのない事業からの撤退の鮮やかさもまた小林の長所であった。ところが必ずしも成功したとはいいがたく、挫折も味わいながら生涯決して見捨てようとしなかったものがある。それがプロ野球、当時の呼び方では職業野球の事業である。