天勝野球団


崩壊、その後

関東大震災。死者99,331人、負傷者103,733人、行方不明43,476人、罹災者合計約340万人、被害総額約65億円(当時の国家一般会計の4倍以上)という未曾有の大災害は天勝野球団、芝浦協会に深刻な影響を与えた。

当時浅草で興行中の天勝一座は、まさに公演中に震災に遭遇した。「ド、ド、ドーッ・・・という不気味な大音響とともにグラグラグラッ!と大地が揺れたのです。あー十一時五十八分!そうしてその後もひっきりなしに余震が襲うのです。何しろお朔日の正午です。どこもかしこも大入り満員のお客さまを呑んでいましたから、六区は劇場や映画館から吐き出された人々の浪がのた打ち、その混乱さは形容のしようもございません。」(『天勝一代記』)

避難する人の波に押されながら、やがて天勝一座の面々は着の身着のままで上野までたどり着いた。日本橋福井町にあった野呂辰之助の屋敷も倉庫も焼けてしまい、野呂や野球団の選手たちも合流してきた。天勝一座は浅草公演の道具一式のみならず、渡米巡業用に揃えた衣装、道具など、ほとんど一座の全財産といえるものを失ってしまったのである。

野呂辰之助は以降一座の復興に忙殺されることになる。もはや野球団を維持できるだけの余力はなかった。天勝や道具方、営業部員とともに関西方面を駆け回り一座再起の支度に追われていたのである。そして天勝野球団の選手たちは将来が見えぬまま、一人抜け、二人抜け、やがてこの日本で2番目に誕生したプロ野球団は自然消滅という結末を迎えた。

天勝野球団主将、鈴木関太郎はこの後しばらく球界に名前が出てこない。昭和7年、当時大リーグと同等の力があるといわれていたニグロ・リーグからフィラデルフィア・ロイヤル・ジャイアンツというチームが来日する(昭和2年に続き2度目)。すでに野球統制令が出ていたため現役学生はプロとの対戦が禁じられていた。対戦したオール慶応の三田倶楽部は現役選手を出場させられなかったためか、この試合に鈴木は出場。「(野球統制令の影響で)一体、選手はいるのかい・・・。ところで、いざ神宮へ駆けつけてみると驚いたり・・・この中の大古物は鈴木の関ちゃん・・・古い人であるが久しぶりに三塁に現はれる」(『野球界』)とある。

強打、好守の中沢不二雄はしばらく駿台倶楽部に参加していたが、満州に渡り、大正14年には満州大連倶楽部の一番打者として芝浦協会の後身、宝塚協会と対戦している。やがて同チームの監督として昭和2年、第一回の都市対抗野球に優勝、後にパ・リーグ会長を務めた。巨漢エースの青山はじめ、他の選手たちはその後の記録に現れない。どこかで野球を続けていたものか、後のプロ野球の隆盛をどのような思いで眺めていただろうか。

野呂が一座再建の見通しをつけ関西から帰ってきた頃、「帝都復興」は急ピッチで進んでおり、天勝一座は仮設舞台で公演をはじめた。やがて震災で無期延期になっていたアメリカ巡業を実現、大正13年1月21日から大正14年4月までの長期にわたる巡業は大成功だった。帰国後の天勝一座はアメリカ仕込みの新しい演出を持って大評判を取る。横浜、大阪、京都、岡山、広島、九州各地から台湾、中国と天勝の巡業は大入りを続け、一座の復興は成ったかに見えた。

このころから野呂辰之助に奇行が目立つようになったという。大の蛙嫌いであったはずが蛙を捕まえ手のひらで遊ばせたり、すれ違う座員の誰彼なく、ニコニコしながら気前良く100円札をくれてやったり、支配人はどうかしていると座員に噂されるようになった。そして昭和2年の正月、野呂邸で座員一同が正装姿で打ち揃い、まさに正月の祝いを始めようとした時、野呂は紋付羽織袴の礼装のまま湯船に浸かっていたという。

「・・・松沢病院で診察の結果、ついに『麻痺性痴呆症』という烙印を押され、もうすでに手遅れであるとの宣告を受けてしまいました。・・・狂暴性ではないからというので堀切の別荘で病を養っていましたが、その年の八月十七日、とうとう不帰の客となってしまいました。」(『天勝一代記』)

野呂が目指した純粋な野球だけの興行の可能性が見えた瞬間、その野球団をみすみす自然消滅させてしまった悔いがあったのか、自らの夢を押し込めたまま天勝一座の復興に邁進してきた反動なのか、『興行界のモンスター』とまで言われた男は夢の実現にあと一歩と迫りながら、力尽きてこの世を去ったのである。

一方の芝浦協会にも難問が降りかかった。本拠地芝浦球場が合宿所の建物も含めて関東戒厳令司令部と東京市社会局に徴発され、救援物資の配給基地にされてしまったのである。「グラウンドの附近は各地から送って来た品々の置き場になっていて足のふみどころもない位・・・」(『野球界』)更にグラウンドの柵に沿っては多数の布と陸軍のトラック、入り口から入ると『東京市炊事場』と書かれて炊き出しの最中、クラブは柵が壊されてレールが引かれ、中には陸軍の兵士が一杯、野球場の外野は掘り返されているという有様だった。

日本運動協会はまだ1年以上の借地権を残していたが、それは無視され、その後も球場の柵は取り払われ、スタンドは壊され、グラウンドには砂利が敷き詰められ倉庫までが建てられた。戒厳司令部のあとを引き継いだ内務省も東京市とともに強制徴発を続けたのは、彼らの『商売人野球』に対する偏見であった。この時期、大学のグラウンドはどこも接収されていないのである。

このままでは野球が再開出来ないので、協会チームは大正12年11月1日、仙台に集合して一ヶ月の合宿練習をはじめた。11月5日には函館太洋倶楽部と対戦し4−0で勝利、その後仙台鉄道管理局と三回対戦、2勝1分。引き分けた試合で協会チームの新人大貫賢が3回から登板、9回まで無失点に抑える見事な初陣ぶりを見せている。帰京した12月8日、早大戸塚球場で明治OBの駿台倶楽部と対戦し10−10で引き分ける。この駿台倶楽部には中沢不二雄が参加し、2安打3盗塁を決めている。

年が明けても芝浦球場は返還されるどころか次々に新しい倉庫が建てられ、抗議をしてもまったく相手にされなかった。「非常時の徴発はやむを得ないとしても其延長が何時迄も何時迄も果てしなく続いては、之に依って経営し、計画した事業は当然蹂躪される外はない。・・・当面の内務省にあっては全然風馬牛でビタ一文賠償せぬは勿論、土地明渡しの期限に就いてさへも一言明確の返事さへ与へない。個人の貸借すら返へさぬものは取りやうがない。況んや相手が官憲では全く手のつけやうもない」(『運動界』)と当局の理不尽さを指摘する声があがったがどうすることも出来なかった。

大正13年1月23日、ついに日本運動協会は東京運動記者倶楽部の記者たちを招き、協会の解散を報告した。協会設立から3年、職業野球の選手もようやく世間から認められてきたこと、しかしながら経営は思わしくないこと、頑張ればあと2年ぐらいは続けられるが見込みのない事業で多数の株主に迷惑をかけるのは忍びないことを告げ、「特に協会選手は、世間から随分悪罵をあびせられたこともあったが、夫れをば隠忍持久して、人格上に於いても少しも恥づる所なく立派なものであったのです。国を出る時、両親知己の反対をしりぞけ新らしき試みに参加して呉れましたのに今日の事情となり、断腸の思ひが致します」(『野球界』に記録された河野安通志のあいさつ)

協会の解散が発表されると、何とか存続させたいという動きがあらわれる。二、三の企業から協会チームを引き取りたいという申し出があったという。その中でも最も熱心で条件の良かったのが小林一三率いる阪急であった。小林は、学生野球の浄化と日本球界の指南車たらんとする協会の理念をすべて継承すると約束した。金は出しても口は出さないというのである。

押川は跡取として東京を離れられない事情があったため、宝塚には河野がすべてをなげうって行くこととなった。全国に散っていた元協会選手に連絡がとられ、ほとんどの選手が「野球を続けたい」と宝塚に向かうことになった。創設時のメンバー、中村薫治はこの時家業の都合で同行できず、涙を飲んで退会している。

「さらば往け、往いて卿等が大成を果たせ。地は芝浦と宝塚の相違はあっても、三年間鍛えた協会チームの精神にさへ揺ぎがなくば、やがて芽は幹となり、幹は枝を生じ、枝は更に華と実を結ぶ」(『運動界』大正13年3月号)


日本運動協会選手一覧(青字は設立時メンバー)
氏名 ポジション 出身・他
山本 栄一郎 投手、三塁手 島根商業。初代主将 宝塚運動協会に参加
篠崎 勉 投手 栃木・下野中学中退
片岡 勝 捕手 大連商業中退 宝塚運動協会に参加
原山 芳三郎 一塁手 長野県出身・横浜英語学校ー長野県安茂小学校教員 宝塚運動協会に参加
大井出 東繁 二塁手 長崎県出身。佐世保中学 宝塚運動協会に参加
清水 鷹治郎 三塁手 長野県・野沢中学ー小学校教員 宝塚運動協会に参加
小玉 与太郎 遊撃手 山形県出身 宝塚運動協会に参加
中沢 薫治 外野手 秋田県・大館中学。マネージャー兼任。 日本運動協会解散時に退団
小沢 寛 外野手 静岡県出身 宝塚運動協会に参加
大賀 六郎 外野手 兵庫県・姫路中学中退 宝塚運動協会に参加
御所名 映二 外野手 大阪・天王寺中学
矢田 真太郎 外野手 逗子開成中ー東京物理学校 大正12年1月合宿までに退団
黒田 正平 外野手 東京市出身。肋膜炎のため第一回朝鮮遠征に不参加 宝塚運動協会に参加
奥村 融 外野手 横浜商業付属補習学校。腸チフスの為第一回朝鮮遠征に不参加 宝塚運動協会に参加
尾崎 昇治郎 外野手 大正11年第一回朝鮮遠征までに参加 宝塚運動協会に参加
孫 孝俊 外野手 大正11年第一回朝鮮遠征中に参加 宝塚運動協会に参加
長芝 投手 大正12年1月合宿前に参加
西村 捕手 大正12年1月合宿前に参加
須佐 外野手 大正12年1月合宿前に参加
大貫 賢 投手 横浜・荏原中学中退。大正12年震災少し前に参加 宝塚運動協会に参加
丸山 守次郎 投手 長野県出身。大正12年震災少し前に参加 宝塚運動協会に参加