天才起業家・小林一三


阪神と阪急

小林は明治39(1906)年11月3日の日記に「午後から三田にゆく 慶応と早稲田とベースボールの競技を見に 中々盛大で秩序アルには驚いた 見るもので芝居と言はず角力と言はず是程面白いものは又と世界にあるまい、慶応の0、早稲田三点で三田が負けたのが残念だ…」と記している。これが小林と野球との最初の出会いであった。これは『プロ野球前史・野球害毒論』の章で紹介した早慶戦中止前の最後の試合であり、グラウンドの歓声は小林の脳裏に深く刻まれたのであろう。

40年に三井銀行を退社し箕面有馬電車(ミノ電、現・阪急電鉄)を設立してからも慶応野球部の大リーガー・コーチ招聘費用を寄付している(明治43年)。そして大正2年に豊中グラウンドが完成、これは後の阪急メセナの象徴とも言える宝塚歌劇団の創設よりも早い。広さ約二万u、当時としては日本一を誇るグラウンドであったという。「共存共栄」を基本理念とし、株主と社員と沿線住民への分配の「利益三分主義」を唱える小林は、早い時期から野球に対して並々ならぬ関心を寄せているのである。

このころ小林は早稲田、安部磯雄に私淑していたようである。昭和2年の阪急社報に『此席上に、私の事業に対して常に理解と同情を持って頂き平素から御指導を辱ふうする安部磯雄先生(略)先生の社会政策に対する各種の御著作によって公共事業経営者として多年啓発せられて来た…』とある(『宝塚戦略〜小林一三の生活文化論』津金澤聴廣・著)。

この関係からか早稲田野球部が大正5年1月に豊中グラウンドで冬季練習を行っている。この時にOBとして河野安通志が同行している。更に市川忠男(後の東京巨人軍総監督、代表)浅沼誉夫(後の東京巨人軍監督)など、やがてプロ野球に大きく関わってくる人物達もこの時同行している。この時小林は早くもプロ野球の可能性を彼等に打診したが河野はまだ時期尚早と答えたという。

この豊中グラウンドは大正4年8月、第一回全国中等学校野球大会(現在の全国高校野球選手権大会)を開催したことで知られる。ミノ電社員、吉岡重三郎(後の東宝社長)の「あそこで関西中学野球大会をやりましょう」と言う提案を受けて小林が「どうせやるなら大きくやれ」と全国大会の企画を大阪朝日新聞社(大朝)に持ち込んでいったのである。ここで大朝に企画を持ち込んだのは、宝塚歌劇などで関係の深い大阪毎日新聞(大毎)に偏りすぎず、もう一方の大朝との関係も考慮したものであろう。この頃の大阪はまさに新聞王国であった。

「大毎、大朝の二大権威を度外視しては、知事も、市長も、府会議員も、いわんや実業家のごとき、何事も出来ないくらいに勢力がある(略)大毎、大朝の発達は、大阪府民の発達と共に発達してきたのであって、官僚の保護によらず、政治家の機関ともならず、また何人にも利用せられず、ただ商品として多数の顧客に普く愛さるる必要品として製造せられて来た」(「新聞王国専制の大阪」)ここで小林は『政治家の機関』として生れ、官権力に押さえ込まれ発展出来ない東京の新聞と対比して、『民衆の都』大阪での民衆の威力を背景として立つ新聞の力を認めているのである。

この頃、小林はとんでもない苦境に追い込まれている。今まで小林を阪急総帥と紹介してきたが、実はミノ電の初代社長は岩下清周という人物であった。岩下は三井銀行時代の小林の上司で、当時は北浜銀行の頭取をしていた。小林の経済的後ろ盾となっていたのである。さらに岩下は大阪電気軌道(大軌=現・近鉄)社長も兼任し、阪神にも資金援助していた。いわばベンチャービジネス育成に情熱を燃やした人物であり、関西に私鉄王国を出現させた功労者といえる。しかし急激な成長は反発を呼ぶ。既存勢力の意を受けたゴシップ紙の執拗なスキャンダル報道により大正4年6月岩下は失脚に追い込まれる。いわゆる北浜事件である。

これにより後ろ盾をなくした小林に、反岩下派の北浜銀行新経営陣から北浜銀行保有のミノ電株の買い取りを強要される。資金不足を見通しての小林追い出し作戦である。なんとか資金繰りをつけて株を買い取ったが、次には灘循環鉄道株の問題が起きる。岩下が創立したこの鉄道の権利を入手すればミノ電が大阪―神戸間に鉄道を引ける事になるのである。しかし当時のミノ電に、並行する阪神と正面きって戦えるだけの力はなかったため、阪神側にどうするかお伺いを立てることとなった。

阪神は小林が資金的に追い詰められていることを承知しているため、待てば値が下がると計算し、購入の意思がないということをミノ電側に回答した。小林はこの機を逃さず、大正5年4月に臨時株主総会を開きこの株の購入を決定した。驚いたのは阪神である。当時阪神は大阪神戸間を1時間で走っていた。ミノ電の計画はそれを40分で走らせようというものであった。強力な競争相手の出現である。阪神は猛烈な巻き返しに出る。すなわち阪神系の株主を使い、ミノ電の株主総会無効の訴訟を起こし、さらには用地買収の妨害に出たのである。

ミノ電が田舎の路線で土地を売ってやり繰りしているのを揶揄して「ミミズ電車」と呼ばれていた頃、阪神間の人口密集地を走る阪神電車は既に大企業であり業績もよく資金も豊富であった。阪神、ミノ電両社に影響力のあった岩下が失脚すると、たちまち阪神はミノ電に対してライバル意識をむき出しにしてきた。そのターゲットの一つに豊中グラウンドで行われていた全国中等学校野球大会があった。

この大会は大成功を収めていたのだが、盛況になればなるほど豊中グラウンドの大きさ、ミノ電の輸送力が問題となった。しかしながら小林は前記のように経済的苦境に陥っていた。これを見た阪神は、大朝に対してなんとか自社沿線に誘致しようと画策し始めたのである。当時は阪神とミノ電の輸送力の差は7対1ほどあったという。この輸送力の差、球場の広さの問題、更には大毎とミノ電の仲が良い事などをあげて大会の誘致を図った。大毎と大朝のライバル意識は阪神ミノ電以上の激しさがあったのである。とはいえ大朝としても阪神の誘致運動をそのまま呑みこむわけにはいかなかった。「とにかくこの話はミノ電から持ってきた企画だ。設備が悪いから、電車の本数が少ないからといって阪神に乗りかえるわけにはいかない。」

しかし阪神も簡単には諦めなかった。大朝に対して切札とも言うべき提案をするのである。「甲子園に三、四年の工期をもって大グラウンドをつくる。それまで鳴尾競馬場内に野球場をつくるから、第三回大会から、この鳴尾球場も使い、三、四年して甲子園球場が竣工したら、甲子園で開催したらどうか」「甲子園は大阪からも神戸からも直行できるし、真ん中で足の便も良い。わざわざ豊中のへんぴな所へ行く必要はないではないか」「鳴尾競馬場内は広いグラウンドも二面はとれ、日程の消化にも好都合、それに足の便がよい。競馬場に集まる人をさばきなれているから、ミノ電のような醜態は演じない。電車はいくらでも増発する」

実際、当時弱小のミノ電は観客を捌ききれなかった。ついに大朝からミノ電に「豊中グラウンドを拡張し、スタンドを整備してもっと大きな球場にしてくれないか。それから電車を増発してもっと輸送体制をよくしてくれないか。この二つを改善してくれたら阪神へは持っていかない」と最終的な希望が出された。吉岡が小林に報告すると、ウムとうなって「将来全国的な事業になると分っていても、金がなければ人にとられてしまう。事業はすべて金と人から成る。うちにはキミのようなよき人はいるが、金がない」断腸の思いであったという。大正7年に社名を阪神急行電鉄とし、資金難と戦いながら路線を延ばした神戸線が開通したのは大正9年のことであった。

阪急の企画を奪うために計画された甲子園球場は大正13年8月1日に完成し、その後のプロ野球史に大きな影響を与えた。豊中グラウンドは資金繰りのため分譲して売られてしまったが、大正11年には宝塚球場が完成する。小林の野球にかける情熱はいささかの衰えも見られない。