日本プロ野球前史


野球害毒論
(早慶戦の中止と害毒論)

明治38年の早慶戦は2勝1敗で早稲田の勝利となったが、早稲田の2勝は共に1点差というエキサイトした試合となり、新聞はこぞってこの試合の事を書き出し世論は沸騰していよいよ早慶両校が話題の中心となっていった。一高野球の教えを受けた有力中学生が中心となり、そのバンカラ校風を引き継いだ新進の早稲田、新橋アスレチック倶楽部の教えを受け独自のハイカラ路線を行く伝統校慶応。

39年には雪辱を期す一高が5月12日に早稲田、同月20日に慶応に挑戦したがあえなく連敗。ここに両校とも敵は早稲田、敵は慶応と秋の3回戦に向けて猛練習に励み、世間ではまさに日本一決定戦を待つかのごとく早慶戦への興味が膨らんでいく。まさに野球は知らなくても早慶戦は知っているという人気ぶりであった。

明治39年10月28日、遂にこの年の早慶第一回戦が早大戸塚グラウンドで行なわれた。海老茶にWUの字を抜いた小旗で応援する早稲田応援団。対して紫地に白くKの字の旗を振る慶応応援団。試合開始前から沸騰点に達した声援と歓声の中、先攻早稲田が3回1点を先制すると慶応4回たちまち2点を取って逆転。試合はこのまま2対1で慶応の勝利となった。沸き返る慶応応援団。静まり返る早稲田応援団。興奮した慶応応援団御一行は早稲田正門前の大隈候の邸前で『慶応万歳』を連呼し、早稲田の地元を大騒ぎしながら三田へと帰る。するとそこには勝利に沸き返る地元商店街の面々が『祝・優勝』の張り紙を出して待ち受けるというありさまであった。

11月3日、雪辱に燃える早稲田が慶応三田グラウンドに乗り込んで迎えた第2戦、早朝から乗り込んで敵を圧倒する早稲田応援団。異様な興奮の中3−0で早稲田が勝利する。さあ先日の御礼をしなければならない。早稲田応援団は敵地三田の商店街を時には万歳、時には応援歌の大合唱と日の暮れるまで大騒ぎし過日の鬱憤を晴らしたのである。

決戦は11月13日と決まった。もはやただではすまない事態となっている。応援団の場所の割り当てで交渉が決裂する。早稲田に脅迫状が届けば慶応にも届く。果ては審判を引き受けた学習院にまで脅迫まがいの電話がかかる。怒った学習院から審判を断られる。地元親分衆まで熱くなる。前日には野宿して決戦の応援に備える学生が数千人。ここに至って遂に早慶戦は中止され、大正14年の復活まで19年間同じグラウンドに立つことはなかった。

『同校(早稲田)の安部部長は之を不穏なりとし、慶応方へ当日は双方とも一切応援団を出さヾるやうにと申し込みたるに、慶応方にては応援隊として双方二百五十名を限り出すことにしては如何との返答あり。されど早稲田学生連はさる制限は無用なりと主張し、既に爆裂団、霹靂団、猛烈団など云へる三個の応援隊を組織して用意をさをさ怠りなき模様なりければ、ベース審判の三島氏は斯る不穏の審判は御免を蒙りたしと之を辞したり。此に於て止むを得ず双方協議の上遂に無期延期と決したる次第なり』(東京朝日新聞、明治39.11.14)

この時の早稲田応援委員はヘルメット帽を被り駿馬6頭にまたがり指揮刀を持って応援を指揮する準備をしていたようである。

さて早慶に敗れたとはいえ伝統の強豪、一高はこの年から京都の三高と定期戦を始める。これもまた人気を集めた。一高の白旗、三高の赤旗。昭和23年まで38回行われて一高の18勝19敗1分。なお一高は後に名投手内村祐之を擁し大正7年に早慶、三高、学習院などに全勝し、野球界の覇者に復帰する。

対戦相手を無くした慶応は翌40年10月、ハワイ、セントルイス・チームを招待する。これが日本初の外国チーム招待であり、この費用をまかなう為に入場料を取った為に日本初の有料試合にもなった。このチームは慶応に3勝2敗、早稲田に3連勝と強さを見せつけたのである。明治41年にはセントルイス・チームの招待で慶応はハワイ遠征をする。12戦6勝6敗。同じころ早稲田はアメリカ本土からシアトル・ワシントン大学を招く。このチームは早稲田に3勝1敗、帰国した慶応に3敗の成績であった。この後日本に立ち寄ったアメリカ艦隊チームなどとの試合を経て、同年11月、日本に初めてアメリカプロ野球チームが訪れる。その名を『リーチ・オール・アメリカン』

リーチ社はフィラデルフィアに本拠を置く運動具店。訪日の目的には自社の製品を売り込むことがあった。これは新橋倶楽部に道具を提供したスポルディングと同様である。リーチ・オール・アメリカンはメジャーリーグ、パシフィック・コースト・リーグの選抜軍である。11月21日に横浜に到着すると、約2週間の滞在で東京12試合、横浜2試合、神戸3試合の計17試合を行い全勝してしまった。なお、このチームの緒戦、11月22日の対早稲田戦において大隈重信が日本最初の始球式を行っている。

日米の実力差に愕然とした慶応は明治43年本場アメリカからコーチを招く計画を立て資金集めに奔走する。東京だけでは足らずに関西財界の諸先輩にも依頼している。寄付をした財界人の中に箕面有馬電気軌道(後の阪急)を開業したばかりの小林一三の名が見える。この時コーチを受けた慶応選手の中に三宅大輔がいた。この成果か慶応初渡米の際にアメリカ側から「ケイオー・チームはTrue Baseballをする」と感嘆されている。

この頃になると選手はスター扱い、新聞には大きく扱われ中学からはコーチに呼ばれ、野球が続けたいばかりに留年を繰り返し新任教授より年上というものまで現れ、野球熱は異常な過熱を迎えていた。地方でも野球大会が盛んに行われ、行き過ぎた応援が問題視され野球禁止の学校まで出て来るようになった。過剰なブームには反動として批判も大きくなっていく。

明治44年8月29日、東京朝日新聞(東朝)は「野球と其害毒」と題し9月22日までに実に22回に渡って野球批判の大キャンペーンを行った。以下は談話という形で発表されたものの一部である。

新渡戸稲造一高校長「・・・野球と云う遊戯は悪く云えば巾着切りの遊戯。対手を常にペテンにかけよう、計略に陥れよう、塁を盗もうなどと眼を鋭くしてやる遊びである。故に米人には適するが英人や独逸人には決して出来ない。かの英国の国技たる蹴球のように鼻が曲がっても顎骨が歪んでも球にかじりついているような勇剛な遊びは米人には出来ぬ・・・」

川田府立第一中学校長「如何なる理由があるにせよ学生が野球試合をして入場料を取るなどと云うこと、服装の興行師めくことは甚だ宜しくない。(略)良選手と良学生とは多くの場合両立するものでなくして、野球の選手に学術の出来るもの、品行の良きものはない・・・」

永井高等高師教授「・・・精神上から云うても昨今日本の野球は余りに勝負に重きを措き過ぎているから種々の弊害がある。対手を怒らす様な拍手や弥次り方をしたり、悪口を云ったり、対手の行動を妨害する様な卑劣な行為が選手によって行われている・・・」

金子魁一東大医科整形医局長「・・・連日の疲労は堆積し、一校の名誉の為に是非勝たなければならぬと云う重い責任の感が日夜選手の脳を圧迫し甚だしく頭に影響するは看易い理である・・・」

乃木希典学習院長「・・・要するにこの学校では野球を必要な運動と認めていない。こちらでは操練体操の外に馬術、弓術、撃剣、柔道、水泳等は単に運動と云うのみでなく学校の正課として生徒に奨励している。(略)一方は必要ならざる遊戯として取り扱い、一方は学生に必要なる運動として奨励している・・・」

そうして連載の最後に全国中学校長のアンケート結果を載せて

◇利害共に在り其の比較程度不明・・・11
◇害ありて利なし・・・9
◇弊害利より更に大なり・・・64
◇利あるもの・・・7
◇利害を認めず・・・3

利ありとするのは、団体競技としての興味が他の遊戯に勝る事、屋外遊戯として適当である事、敏捷な行動と団体の為に自己を犠牲にする美点を養成する事をあげ、害ありとしてそれらに事細かく反駁するように、多大の時間と場所を要する欠点がある事、興味があるだけ熱中し成績が悪くなる事、粗暴に流れ虚栄に傾き酒食にふけり品性劣悪に傾く傾向がある事、少数の選手が広い運動場を占有して一般学生の運動を妨害する事、近時流行の応援のごときも学生を不規則不真面目に陥らせる事、身体の発育に不自然をきたし、往々肋膜炎、神経衰弱、不具となる実例が多い事をあげ、学生の遊戯として多大の弊害があり学校運動としても欠点があると論じている。

更に成績品行の低下ありとするもの・・・47、向上したとするもの・・・1、変化なしとする者・・・7というアンケート結果を示し『然し大体に於て何れも現在の野球が多くの青年に弊害を流しつつある事は一点疑うべからざる事実である』とまで言い切ってしまうのである。

ここに至るまでの学生野球界の熱中ぶりを検証していくと東朝の野球害毒論にも理があると思われるが、あまりに論者の意見に偏りがある。批判するにしても野球を知らなすぎる。野球に対して偏見を持つもの、野球知識のないものを論者にし、また応援についてのみ批判するものまで野球全体を否定しているかのような見出しをつけ、最後の東朝の結論にも強引さが感じられる。たちまち野球擁護論者から反論が上がった。「読売新聞」「時事新報」そして「東京日日新聞」である。

明治44年といえば大阪において大阪朝日新聞(大朝)と激しい競争を繰り広げていた大阪毎日新聞(大毎)が東京日日新聞(東日)を合併し本格的に東京進出を果たした年である。当時唯一の全国紙として君臨していた朝日新聞の危機感が強引なまでのキャンペーンに踏み切りその存在を示そうとしたのではないかと推測される。しかしながらこのような大キャンペーンを繰り広げられるということは、学生野球界にも身に覚えがなかった訳ではないのである。

害毒論と擁護論の論戦をよそに野球熱はますます過熱し、大正2年の大リーグチームの来日、更には大正4年の全国中等学校野球を東朝の本体である大朝が主催するに至って害毒論はかき消されていった。しかしながら害毒論が指摘した学生の応援をはじめとする種々の問題点は解消していた訳ではない。後に、堕落した学生野球の浄化の為に自らプロ野球を興し球界に範を示そうとする動きが現れる。アメリカでベースボールに触れた人たち。早稲田の河野安通志、押川清、橋戸信らである。


西暦 年号 野球史 社会史
1906 明治39 4.6一高、三高定期戦始まる
5.12一高1−6早稲田、5.20一高0−7慶応
11.13早慶戦双方1勝1敗の後、中止
以後19年間に渡り対戦せず
3.30鉄道国有法制定
11.南満州鉄道株式会社設立
1907 明治40 10.31〜11.19慶応、ハワイ・セントルイス
チームを招待。外国野球チームの初来日
7勝2敗
1908 明治41 6.29〜9.11慶応ハワイ遠征、6勝6敗
9.3〜10.10ワシントン大学来日、6勝4敗
10.19〜10.24米東洋艦隊チーム、早慶に
1勝7敗1分
11.21〜12.8リーチ・オール・アメリカン来日
17戦全勝
1909 明治42 9.16〜10.13ウィスコンシン大学来日、4勝4敗 10.伊藤博文ハルビンで暗殺される
1910 明治43 9.26〜10.29シカゴ大学来日10戦全勝
(早稲田の招待)
12〜慶応、アメリカからコーチ招聘
3.箕面有馬電気軌道(後の阪急)開業
4.京阪電気鉄道開業
8.22韓国併合
11.30白瀬中尉、南極探検に出発
12.10大逆事件
1911 明治44 3.28〜8.17早稲田、二度目の渡米
17勝36敗1中止
4.19〜8.12慶応、初渡米。29勝20敗1分1中止
8.29〜9.22東京朝日新聞『野球と其害毒』を
22回に渡り連載する
松旭斎天勝、一座を旗揚げ
3.1大阪毎日新聞(大毎)、東京日日新聞
(東日)を買収し東京進出
5.宝塚新温泉開業
9.青鞜社『青鞜』創刊。「元始、女性は
実に太陽であった。・・・(略)」