天才起業家・小林一三


職業野球団打診

大正5年、豊中グラウンドに訪れた河野安通志や市岡忠男らにプロ野球の可能性を打診したという小林一三は、最大のイベント、全国中等学校野球優勝大会がライバル阪神に奪われた後も、宝塚球場の建設(大正11年6月15日竣工)宝塚運動協会の設立(芝浦協会の再興;大正13年2月)とプロ野球に対する意欲は衰えていない。

ここで注意すべきはまだ芝浦協会が正式に試合を行う前から宝塚球場が建設されていたという事実である。小林は河野らとは別にプロ野球の可能性を模索していたのである。このころ小林が安部磯雄にプロ野球コーチの人選を依頼しているらしいとの噂が当時の野球雑誌(野球界、大正11年5月号)に載っている。

この小林のプロ野球構想の集大成と言うべき文章が昭和10年9月に出版された『私の行き方』の中の「職業野球団打診」という一文にある。この『私の行き方』は小林が過去に発表、あるいは書き留めた文章を集めたものであるが、それぞれの文末に数字が付記されており、この「職業野球団打診」には(12・5)という数字が付されている。

これが(年・月)を示すのか、(月・日)を示すのかで執筆時期が変わるのだが、文章中に月度の表記のあるものとの対応や(元・11)のような表記があることを考えると(年・月)を表すと考えるのが妥当であろう。そうするとこの文章は大正12年5月のものとなる。以下全文を引用する(改行、新仮名遣いは引用者による編集)


職業野球団打診

職業野球団設立の機運はやや熟して来たように思う。そこで問題はどういう組織で設立するか、どういう方面から選手を集めるか、というのであるが、会社組織又は法人組合等の設立の手段には、いろいろ方法もあるだろうが、要するに設立後営業として成立しうるにはどうしたらばよいか、というのが先決問題である。

私は、計画だによければ必ず成立するものだと信じている、それはグラウンドを持つ鉄道会社たとえば東京ならば、京成電車、東横電車、関西ならば、阪神の甲子園、阪急の宝塚、京阪の寝屋川、大阪鉄道の何とかいうグラウンド等立派な野球場を持つ是等の鉄道会社が各会社専属のグラウンドにて、毎年春秋二期にリーグ戦を決行する、そうして優勝旗の競争をする、斯くすることによって各電鉄会社は相当の乗客収入と入場料と得るのであるから、野球団の経営費を支出し得て、或は余剰があるかもしれない。

只此場合、野球場の位置、たとえば、甲子園と宝塚と寝屋川では入場者の数に非常な相違があるので其収入の分配に就て公平に決済し得る方法を考慮する必要があるので、それさえまもれば設立は難しくないと思う。

実は私はこの四電鉄会社の野球団設立を発言しているのであるけれど、又、此案の成立に大毎運動部は相当に努力しているけれど、いろいろの事情で実現しないのを遺憾に思っている。若し仮に私の理想のような野球団が関西に生まれて、其優勝試合が年中行事となる場合には、東京にも必ず同一野球団が出来て、そこに初めて東西の優勝試合が行われるという事になると思う、これが一番実行可能性の方法であると信じている。

然らばこの場合選手はどうするか、選手は学校出を集めるのがよいと思う、能く世間では学生以外から、即ち、広く一般から募集して養成すれば立派な選手が出来ると主張する人もあるけれど、現在のところでは私はそうは思わない。何となれば、大阪朝日新聞社の全国中等学校野球大会が毎年夏休に甲子園に於て挙行せられるあの花々しい大会を開く前に於て、全国の有数の都会に於て其予選大会が行われる。

其結果として、全国的に小学生から中学校程度の学生……言葉を変えて言えば野球に興味を持つ小国民の大部分は此時代に其本性を発揮し尽くすので、若し職業野球人たる資格と野心を持つ人ありとせば、それは此小学校中学校の野球児から発見するより外に途はないのであるから、結局大阪朝日の全国中等学校野球大会に関係を持つ範囲内から生まれるものと信じている。

現に、各大学の野球児の殆んど全部は、大朝の野球試合の洗礼を受けた、人か、或は又それ等の感化か、又は其何等かの影響を受けて出来上がっている実状から見ても、学生以外から職業選手を選抜するのは無理だと思うのである。

そして米国にお手本のあるような職業野球選手といえば、半ば芸人染みた、興行本位の団体を一足飛に創ることはまだ経験のない日本に果たして維持し得るだろうか、此点から見ても、各電鉄会社が、社員待遇で、而かも専門的の教習と競技とを実行するものとせば、存外、芸人染みずして佳い強い団体が出来上がるものと信じている、私は、この方法が将来米国式の職業野球団を作るにしても、先づ進むべき第一歩であるものと考えている。


これがいわゆる電鉄リーグ構想である。まず設立後営業として成立しうるにはどうしたらよいかを重視し、関西における春秋2シーズン制と年度優勝シリーズ、さらに東西リーグによる日本シリーズが構想されているが、特筆すべきはリーグを構成する各チームの収入格差の是正にまで言及している点であろう。更に手本とすべき米国プロ野球のスタイルが日本になじむまでの段階的なプロ化を示唆している。随所に小林らしさの見られる構想であると言えよう。

なお、大正12年5月の記述とすると、ここで疑問に思われるのは甲子園球場に対する記述であるが、大正13年8月1日に完成するこの球場はこの頃すでに工事が進んでおり、当然完成後には全国中等学校野球大会が甲子園で行われるのは周知の事実であったために記述したか、若しくは後に加筆したものと思われる。

ほぼ同様の文章が昭和10年1月の雑誌『改造』に「職業野球団の創設」という題名で寄稿されているが、原型となる文章が大正12年頃と思われるのは、阪急と関係の深い大阪毎日の選抜大会(大正13年4月、第一回開催)に対する記載がないこと、大正13年2月に結成された宝塚運動協会に対する記載がないことである。なお文中の寝屋川球場は大正11年春の竣工であり、この時点で京阪電車も阪神電車も実業団野球チームを持っており、小林が電鉄会社の相次ぐ球場建設に触発されてこの構想を考えたと見るのが自然であろう。

それでは当時の関西に、どれだけ小林の構想を受け入れるだけの下地が出来ていたのであろう。関西における野球の発展、また文章中で「此案の成立に相当に努力している」といわれている大阪毎日新聞社の野球との関わりを次項において触れてみたいと思う。