氣候の狂変と戦ふ

悪戦苦闘を繰返しつヽあつた大毎野球團の米國旅行もまう終りを告げた。ハワイの一ヶ月を別にして米本土では太平洋岸のアラメダ、フレスノ、サクラメント、スタツクトン、ローサンゼルス、ポートランド、シアトル、中部でサウスベント、オハイオ州コロムバス、デトロイト、クリーブランド、東部でシカゴ、ニューヨーク、ワシントン、バツフハロー、ヴァーモントの各地に転戦實に三十余回及んだが、有体にいえばその悉くに揉まれてきたのであつて米國野球遠征といふよりも寧ろ野球修業といつた方が遙にあたつてゐるやうに思ふ。

勿論そこに戦績の芳しさないのを遺憾とするがタクチックの上にも技巧の上にも各自若くはチーム全体が体験した処は決して小さいものではなかつた。殊に大職業團のリーグ戦を見たこと十四五回「タイカッブ」や「ホーンスビー」や「ベーブルース」などの超ど級が驚くべき攻撃力と「コリンス」や「フリッシュ」や「シスラー」などの名選手が見事なる守備振とには全く陶酔したのであつた。これ等の印象はいづれ大毎選手によつて専門的に記述せらるべく私がこヽに書かうとするのはたヾ一行と共にあつて見聞した断片に過ぎない


私は五月十八日に大毎選手を迎ふべく十七日シカゴに着いたがその日の日記に
「午後シカゴのグラウンドにシカゴ對フイラデルフイアの試合を見に行く、今朝來氣温急降下して厳冬の寒さに反つた、グラウンドの選手も見物も慄えてゐる麦ワラ帽をかぶつて來る人があると見物が總立ちとなつて拍手しつヽ笑罵するのである……」

この寒さは二三日続いてゐたが五月二十二日オハイオ州コロムバスのオハイオ大學と試合する朝になつて俄に蒸すやうな熱気が襲つて來た。午後一時グラウンドに行くと「高熱九十度」といふ掲示が出てゐた。空は紺青に晴れて日の光は丁度八月初めの鋭さである。昨日まで毛のシャツと外套とに包まれてゐた肉体は忽ち酷熱に射られて針にさヽれるやう、敵も味方も汗でユニフオームはドロドロになつた。

それから翌日デトロイトに行つたところ、夕方から急に寒い北風が吹いて外へ出ると耳がちぎれるやうだ。城崎大地震はこの日の夕刊によつて知つたのであるが翌日の二十四日は朝の十時頃から雪降りとなつた。ホテルの部屋には勿論スチームを通され外套の襟を立てながら白くなつて街路を行く人々を見ると何だかかう北の國へ旅してゐるやうなさびしい心持になつたものだ。雪は十二時頃にやんだので三時からデトロイト對ワシントンの第四回戦を見に行つたが「厳寒のため今日は試合を中止するはずであつた」とデトロイトのマネヂヤーはいつてゐた、ソレが五月廿四日のことだ。


私達は全く驚かされてしまつた。外套を出したり、入れたり、毛のシャツを着たり脱いだり、氣候に對する服装の調節もかう度を失つてくると寧ろ滑稽に感じられる。桐原選手がハワイで買つた夏帽の如きも、幾たび捨てられかけようとして命を取止めたか知れぬ。しかしその内に氣候順當に復して五月廿八九日頃から六月三日まではいはゆる快適な春暖に浴し得て大陸の春に■いたが二日一行がニューヨークに入ると共に脩忽として酷烈な暑氣は襲来した

三日夕一行はワシントンに向つてペンシルヴァニア停車場を出發したが車中の温度九十七度、さすがの米人もワイシャツ一枚となつて喘ぐ外はなかつた。婦人達の服装は半裸体であるからソレ程でもないらしいが男子はいくら熱くてもカラーをはずす訳に行かぬ。まして外國人である私達は相當の態度を保つていかねばならぬから従容として熱の攻撃を受くる苦悶さは言語道断である。

しかも翌四日は市中の温度百十一度乃至百四度、室内九十九度乃至百度となつて、東部各地方は暑熱のため続々死亡者を出すに至つた。これが為公園の夜間開放となつたり救護班の活動となつたりして新聞紙はこの暑熱記事によつてみたされる有様、氣象台では技師を飛行機に乗せて各方面の高空氣象観測に急派したが當分氣温は低下せぬといふことに一致したとある。私達はこの最中にハワード大學と試合して勝ちは勝つたがホテルに引きあげると共にみんな倒れてしまつた。そしてこの夜は交る交る水風呂に入つて明かしたのであつた。

内海選手が盲腸炎を起こしたのもその翌々日の汽車中のことで、余りの熱さに車中の男女はたヾ喘ぎ悶えるばかりであつたが悪い時は悪いものでニューヨークにつく一時間前に線路の大故障で汽車は三時間立ち往生してしまつた。走行中は風が入るので多少の涼味はあつたがピタリと停車すると共に焦げつくやうな熱氣はニューゼルシー州ニワーク市、十万の甍を溶すべく、折柄の西日と共にそれが容赦なく車窓に闖入して來た。最前から腹痛を訴へてゐた内海選手はもう顔面蒼白となつて横に倒れてしまつた。私達は狼狽した。

上原ニューヨーク特派員は列車長に向つて「こヽに急病人があるから下車を許して呉れぬか」といつたが「停車場でないところに下車は許されぬ」とて應諾しない。上原氏ヤツキとなつて「この病人が死んでも下車させぬか」と詰よつたが老ヤンキーの列車長は冷然として「勿論!」梃でも動きさうでないので病内海は苦悶しつヽペンシルヴァニア停車場まで持つて行かれ、つひにその翌日入院して盲腸切開の手術を施したのであつた。この高熱はかうして六月七日まで続いたが死亡者實に二百余名を算するに至つた。それでも米國人は白服白靴を用ひるのでない、依然たる合服の着用で流汗淋漓!。


私達は六月十八日にニューヨークを出發してニューイングランドのヴァモント州に入った。私達の相手はバーリントン市のヴァモント大學であつたが市はチャムプレイン湖に臨んだ静寂の地で夜涼水の如く清く秋は早く來たのではないかと思はれる位のうすら寒さで思ふまヽに清澄の氣に浸つたのであるがその廿五日にシアトルに着くと氣温九十三度、同地方希有の温度に見舞はれた。

私達はかうして五月十八日から六月廿五日までの一ヶ月余において、幾度冬に送られ幾度夏に迎えられたか知れぬ。私はあへて我大毎チームの成績を割引して貰はうがためにこの事を特記するわけでないが、私達はこれだけの急激な氣候の変化に堪え得るだけの剛健さは勿論持合してゐる。だがこれに堪ふるには相當の精力を消費せねばならぬ、従つて次第に疲労と衰弱とがどこかに、さびしい影を投げかけて來ることは拒まれない事實である。遠征チームの實力は余程の強味と余裕とがなければ期待し得られないことは豫め承知してゐたが、これほど氣狂ひじみた氣候に苦しめられようとは思はなかつた。

大阪毎日新聞 大正14年7月26日

米國大學の運動はフットボールが第一

大毎野球團の目ざす敵は大學チームである、時に倶楽部とも戦ひ半職業團とも試合をしたが遠征旅行の主なる目的は大學チームにあつたことは勿論で昨年末からそれぞれ試合の交渉を開始したがそれでも時期が遅れてしまつた。大抵毎年春から開始される試合のスケヂュールは前年の九月頃までに確定されるために思ふ相手を逸したことは遺憾であつたが、ソレでも私達は左の諸大學と戦ふ事が出來た

ノートルダム大學 2對1(勝)
 (十回戦)

オハイオ大學 10對11(負)
ミシガン大學(第一回戦)1對3(負)
ミシガン大學(第二回戦)3對4(負)
 (十三回戦)

ハワード大學 10對3(勝)
ニューヨーク大學(第一回戦)5對12(負)
ニューヨーク大學(第二回戦)0對4(負)
ヴァモント大學 1對2(負)
ワシントン大學 1對5(負)

たヾ二回の勝利は面目ないがニューヨーク大學とワシントン大學を除けば外は悉くクロスゲームでスタンドに溢るヽ見物からは少からぬ同情と賞讃とを博し得たのであつた。私達は僅にこれを満足とする外はない。なぜ勝ち得なかつたか、彼等の強味はどれほどであるか、私は今これについて批評することは差控へたい、そして私達が強くなかつたのだといふことに一切を帰納さしたいと思ふ

私がこヽにいはうとするのは米國大學の野球が割合に盛んでないことである。これは少し意外にも感ぜられた。そして大學スポーツの全盛はフットボールに移つてゐた。

米國大學のスポーツではフットボールが第一、次ぎがトラックフヰールドで野球は第三位に置かれてゐた。いはゆる米國式フットボールが如何に盛んであるかは各大學のフットボールスタヂアムが如何に壮麗であるかによつて証拠立てらるべく、キャリホルニア大學やオハイオ大學のスタヂアムは實に六万の観衆を収容して余りありと称されてゐる。数十段のスタンドが大円形を描いてグラウンドを取囲んでゐる壮観はニューヨークのポログラウンドだのヤンキースタヂアムなどの野球場すらとても及ばない廣大さである。然も年に四五回の對校競技はこのスタヂアムを埋め尽くして切符一枚が五十ドルにも六十ドルにも賣買されるといふ。

例へばスタンフォード大學對キャリホルニア大學、オハイオ大學對ミシガン大學といつたやうな對抗競技は数万男女の地を沸かして一回に少くも五六万ドルの収入をあげ得られる。だからスタヂアムの建造費くらゐは何んでもないので中部の諸大學では今スタヂアム建設の競争をしてゐる。即ち先年までは四万五千を収容するミシガン大學のスタヂアムが最大であつたが最近に六万のオハイオ大學、五万五千のイリノイス大學が出來たヽめにミシガン大學は更に七万を収容し得る新スタヂアムを建設すべく計算しつヽある。これに比ぶれば野球グラウンドの如きは小規模極まるもので大抵早稲田大學のグラウンドと余りの相違はなかつた。


私達の試合はその大學グラウンドで多い時は約一千人少くて五六百の観衆を呼ぶのであるが勿論フットボール競技の盛観に追及し得べくもない。これは私達の試合が興味を惹き能はぬためかと思つたがエール大學對ハーバード大學の對校試合でも五六千人位の観衆に過ぎぬことからすれば、大學のスポーツとしての野球が終にフットボールに圧倒されてしまつたのである。そして野球は全く職業團のものとされてしまつたのであらう。野球が依然米國の國技であることに間違ひはないが、それは職業野球團を中心とした事で幾万幾十万ファンの興味は大職業團、小職業團、若くは半職業團の試合に向つて注がれ大學のスポーツは今やフットボールに專有されてしまつてゐる

然しながら大學野球は決して衰えて行くのではない。各大學チームは殆ど一週二回位づヽ對校試合を繰返してそのスケヂュールは立派に印刷されてゐる外たヾフットボールほどの多くの観衆を呼び得ないまでヾある。又その強みからいつても職業團に比敵し得るくらゐの強チームがある。

ニューヨークのホーリー・クロッス大學の如きは数年間全勝の名誉をつヾけその正投手カーロルといふのは私のニューヨークにゐる間に大選手タイカッブに見出されてデトロイト軍の投手に買はれデトロイト對ボストンの大試合に初めて出場し七回でノックアウトされたが大學投手が大職業團に加はつて直試合に出場するやうな事は異例と称されてゐた。又ペンシルヴァニア大學の遊撃手(今その名前を忘れた)もニューヨークジャイアント軍に買はれ三塁手となつて出場してゐた。


私達の野球遠征はこの大學チームを相手として相當の入場料を得つヽ旅行を続けるのであるが前に述べたやうにさう多数の観衆を望まれない入場料は七十五セント乃至五十セントであるが観衆の多数は學生であるために大抵の場合は五百ドルくらゐの總収入がマキシマムであつた。そしてその内の幾分を相手に頒たねばならぬから結局一回の収入三百ドル若くは二百ドルあまり三百ドルの収入を二十回重ねるとしても六千ドルに過ぎぬ。六千ドルは私達の汽車賃だけだ。

米大陸の野球旅行は或大學と特別の契約をしてゐないかぎり、到底収支償はぬものと見ねばならぬ、これに反して若日本に米國式フットボールの強いのが出來てソレが米國に遠征するとするならば容易に数万ドルを握り得られるであらう

大阪毎日新聞 大正14年7月27日

紐育アスレチック倶楽部

澤山の試合の中でニューヨークアスレチックス倶楽部とのそれは最も気持ちのいヽ一つであつた。アスレチック倶楽部といふと青年の一運動倶楽部に過ぎぬやうに思はれるがこれはスポーツを愛好するニューヨークの一流紳士のみによつて組織されたもので會員四千人に上り三十九町目の中央公園に面する大通に堂々たる大會館を構へてゐる。

私達がこのアスレチック倶楽部に對して驚いたことは丁度一行がニューヨークに着いた翌日の各新聞を見ると

「ニューヨークアスレチック倶楽部は現在の會館は凡てが旧式に■し不満足の点が多いので一昨日委員會を開いて三千五百万円の巨費を投じて新會館建築のことを決定した。その後現在の幹事数氏は建築費三千五百万円は余りに多きに過ぐるの理由を以てこれに反對したが多数は一瀉千里の勢ひを以て原案を通過したので幹事はつひに辞任を申出た」

といふ記事が載つてゐたことである。この事は各新聞共大々的に取扱つてゐた。私達は全く唖然とした。いかに世界一のニューヨークとはいへ倶楽部の建築費に三千五百万円は魂消ざるを得なからう。断つておくが三十五万円の間違ひではない。ニューヨークアスレチック倶楽部とは實にかくの如く豪奢を極むる大倶楽部である。


私達はこの倶楽部の賓客となつて三十九町目の會館に宿泊したが、この會館の喫煙室、談話室、食堂、図書室の■■を極むる事は今更いふまでもないがその四階五階は全部運動場となつてテニス、体操、相撲、弓術、剣術、ボクシング等に区別されてゐる。そして五六十歳の老紳士がシャツ一枚となつて或者はテニスを或者は弓術を練習しつヽある有様を見てその旺盛なる元氣に敬服する外なかつた。この倶楽部に出入する會員は千差万別であらうが私達が見てとても運動などは出來さうにない老紳士が事實において倶楽部の競技者であり運動奨励者三四十歳の青年紳士と相伍しつヽあるその颯爽たる英氣はまことに欽羨に堪へなかつた。

ニューヨークから四十マイルばかりのトラバース、アイランドといふ海に近い郊外にこのクラブハウスがある。風光の美しいところでそこに瀟洒な五階建の建物を中央にして、テニスコート、野球場、ゴルフリンク、ボートハウスなどがあるが私達とアスレチック倶楽部との試合は六月十四日の日曜にそこで行はれた。グラウンドはやヽ狭かつたが滴るやうな新緑に取巻かれ柔かい海風を受け入れつヽその夕べ五時にゲームは初められたのである。勿論今日は倶楽部會員のためのエキヂミション・ゲームであるから入場料は取るのでない。

日曜であるから多くの會員は夫人令嬢をつれて來てゐるので鬱とした闊葉樹の木陰、若葉もゆる土手の彼方は紅や紫を付濃にしたレデースの目覚むるやうな運動服とニッカーボッカーの紳士とで満たされまたなくも美しいシーンであつた。試合は幸に九對六で勝つたがこの美しいお客様達は悉く私達のために声援を與へてくれて快技のあるたび毎に長打の飛ぶたび毎に惜し氣もなく拍手と喝采を與へてくれた。そして試合が済んで私達が引あげるとわざわざ傍へ寄つてきて「よく勝つて呉れた、私達はお前達の勝つのを見にきたのだよ、倶楽部チームは負けた方が薬になるのだ」とほんとうに喜んでくれてゐる。


其処の倶楽部ハウスに引揚ると今晩餐を初めかけてゐる。幾百の食卓はレデースと紳士とで星のやうなあでやかさである。倶楽部ハウスの四階は宿泊が出來るやうになつてゐる。私達はそこでバッスに入つて服装を改めてから倶楽部のチームと一共に御馳走になつたが會員のいろいろな人が交る交る話にきてくれる「住友銀行の今村幸男氏に會つたらよろしくいつてくれ給へ、アノ人はこヽの會員であつたのだ」となつかし氣に繰返した人もあつた。私達は八時に帰宿すべく玄関先に出ると、五日月の影淡きところ主人公を待つ幾百の自動車は縦横にならべられて足を踏み入るヽ余地すらない。

大阪毎日新聞 大正14年7月28日