第1回・ベースボール伝来

 『日本にベースボールが伝来した頃、アメリカにはもうプロ野球があった!』てなことを聞かされると「さすがは本場、日本なんかとは歴史が違う…」なんて思ってしまいますが、次のように言い換えるとどうでしょう?『日本にベースボールが伝来した頃、それはまだ素手でボールを捕るゲームであった!』どうです?日本の野球の歴史も結構古いでしょ。

 天保の改革の水野忠邦が失脚し、遠山の金さんがリリーフに、じゃなく江戸南町奉行に転じた1845年、カートライトと彼の所属したチーム“ニッカボッカーズ”によって、従来行われていたタウンボールというゲームに改良が加えられ、近代ベースボールの歴史が始まったのでありました。それから27年後、坂本竜馬暗殺から5年、五稜郭の戦いで土方歳三が戦死してから3年たった明治5年、ベースボールが日本にやってきたのです。

 これを初めて伝えたのは第一大学区第一番中学(現在の東大)のアメリカ人教師ホーレス・ウィルソンといわれています。ウィルソン先生、その立派なヒゲから「なまず」とあだ名され、授業は厳しいが教室以外では優しく、放課後には生徒たちとノックを楽しむという、まるでどこかのドラマで見たような熱血先生でありました。もちろんアメリカ人で野球好きな教師は彼一人ではないので、同時期に北海道や熊本などでも他の人によって伝えられていたようでありますが、他の先生たちが「なまず」だったかどうかは定かではありません。

 当時のルールは、現在とはまだいくつかの大きな違いがありました。投手は下手からしか投げられず、しかも打者は自分の得意な高・中・低のどれかのコースを指定出来たのです。これが九球コースを外れると打者は一塁に歩きます。つまり四球ではなく九球。そしてグラブもミットもまだなかったのです。本場アメリカでもせいぜい革の手袋程度、根性で球を捕っていたのです。

 「ザンギリ頭を叩いてみれば文明開化の音がする」と歌われたこの頃の日本は、ちょんまげ頭もまだ残り、帯刀も禁止されておらず、名字を付けていない者なお多しという、未だ江戸時代を色濃く残した時代でありました。「汽笛一斉新橋を」と鉄道が開業し暦が太陽暦になったのがこの年。「切り棄て御免」が禁止され、藩に代わって県が、両に代わって円が登場するのが前年の明治4年。西郷どんが西南戦争をおこすのはこれからまだ5年後、もちろん上野で犬を連れてランドマークしていませんでした。

 そんな時代に、日本で暮らす外国人たちがその居留地でゲームを始め、各地の学校でアメリカ人教師たちがベースボールを伝え、アメリカ留学から帰省した人たちが新しいルールや道具を持ち帰り、また彼らからベースボールを教わった生徒たちがタンポポの種のように各地の学校教師として赴任し、そこの生徒たちにベースボールを教えたのです。この新しい遊びはたちまち当時の青少年たちを夢中にさせました。やがて線路が各地に伸びて、郵便、電信が発達し、新聞が盛んになるとベースボール熱は日本中に広がったのでありました。

第2回・悪童、アメリカを行く

 前回のお話は、日本にやってきた米国人教師がベースボールを日本人生徒に教えたというものでしたが、その逆のケースもあります。すなわちアメリカに行った日本人が本場のベースボールに触れて、それを日本に持ち帰るというものです。

 “煕”…いきなり難解な漢字の登場ですが、この上の部分に更にニスイをつけた、パソコン泣かせの文字の読み方は“ヒロシ”。明治の初めに日本にベースボールを持ち帰った人物の名前であります。

 今回の主人公、平岡ヒロシがアメリカに渡ったのは日本にベースボールが伝わる一年前の明治4年。若干16歳、当時は数え年ですから今でいうと中学3年生くらいでしょうか。青年というよりは少年といったほうがふさわしい年齢でありました。

 当時のヒロシ君は天衣無縫、茶目っ気があっていたずら好き、といえばなんだか可愛い少年のようですが、近所で迷惑を受けた人たちにとっては『悪童』でありました。維新前には徳川御三卿のひとつ田安家の付家老まで出世していた彼の父もこの悪童振りにはほとほと手を焼いたようで、家督を継ぐヒロシの留学は英才教育というだけではなく、未知の世界に放り出せば少しはおとなしくなるという考えもあったようであります。

 さて、ヒロシ君、アメリカはボストンへと留学いたしますが、そこで人生を変える二つのものと出会います。一つは蒸気機関車、2年前に開通した大陸横断鉄道に乗ってサクラメントからニューヨークに向かった彼はすっかりこの巨大で力強い乗り物に魅せられていったのでした。

 そしてもう一つはベースボール、ヒロシ君が留学した年は、奇しくも初のプロリーグ、ナショナル・アソシエーション・オブ・プロフェッショナル・ベース・ボール・プレイヤーズ(NAPBBP)が結成された年でもありました。留学先の地元チーム、ボストン・レッドストッキングス(現在のレッドソックスの前身)はその翌年から4年連続優勝を成し遂げる強豪チームであります。もっとも当時は前回述べたようにまだ投手は下手からしか投げられず、野手も素手に近い装備しかありませんでしたが、このチームにはヒロシ君より6才年長の名投手アルバート・スポルディングが在籍しておりました。

 初等学校を1年半で卒業し、ハイスクールを3ヶ月で中退したヒロシ君は機関車製造工場の工員として働き、そこの仲間たちとベースボールに興じておりました。彼は主に投手としてチームのレギュラーになっており、地元では中々の人気者であったようです。工員としても優秀で、後にフィラデルフィアの大会社からスカウトされるほどでした。

 鉄道技師としての技術を身につけたヒロシ君は明治9年、帰国の途につきます。数えで21歳、5年間の留学生活でもう立派な青年でありました。初等学校時代にボストンを訪れ面識のあった伊藤博文の口利きで鉄道局勤務になるのが翌々年の明治11年、そこで日本初のベースボール・チーム『新橋アスレチック倶楽部』を作ります。

 次回の『にっぽん野球昔ばなし』はヒロシ君の帰国後の活躍についてのお話です。

第3回・誕生!新橋アスレチック倶楽部

 帰国したヒロシ君は持ち帰ったバットとボールで弟の寅之助と遊んでおりましたが、平岡家は来客が多く、「おもしろそうだからやらせてくれ」といいだす人も現れてきました。そうなると庭では狭いので神田の練兵場に毎日のように出かけては平岡家の使用人なども加わったにぎやかな練習をするようになりました。すると、神田周辺の学生たちが本場直伝のベースボールを見ようと集まってきて、更ににぎやかになったのでした。

 ヒロシ君が明治11年に鉄道局勤務が決まり、新橋工場へ出仕するようになっても学生たちはベースボールを習いにきておりました。さらに仲間の工員や技師、駅員なども汐留停車場南の広い野原でベースボールを楽しむようになり、やがて2チームに分かれて試合のような形式も行なわれるようになり、ついに日本で始めてのクラブチーム『新橋アスレチック倶楽部』が誕生するのです。

 『新橋アスレチック倶楽部』の面々は白い帽子、白い上着は襟付きでしゃれたリボン状のネクタイ、膝までの白いズボンにストッキングというニッカボッカースタイルで颯爽とベースボールを楽しんでおりました。もちろんヒロシ君が作らせたものですが、これが日本で初めてのユニフォームでもありました。

 それではそれまではどのようなスタイルだったかというと、「気の利いたところで襦袢下かシャツ1枚、ひどいのは暑い折は素裸体に六尺褌一本、朴歯の下駄という珍な姿の時もあれば、寒い折は羽織袴をつけて平気でいた時すらある」(国民新聞社・日本野球史より)という有様でしたから、新橋倶楽部のユニフォームは当時としては非常にハイカラなものでありました。

 ヒロシ君は新橋アスレチック倶楽部の写真を添えて、アメリカ時代に地元チームの名投手として活躍していた選手に手紙を出します。自分がボストンに滞在していたことを告げ「…当時、ボストン・ナインが全米チャンピオンであり、ピッチャーは貴方スポルディング選手、キャッチャーはホワイト選手でした…」そして自分が日本にボールとバットを持ち帰り、球団を作ったことを報告したのです。

 手紙を受け取ったスポルディングはこの時選手を引退して運動用具店の社長になっておりました。そう、彼は現在に続くスポルディング社の創始者なのです。彼はヒロシ君の手紙に感激してアメリカでも出来たばかりのマスクやミットを含む最新の野球用具一式を送り、さらに毎年のようにルールブックを送り続けてくれたのでした。

 さて、野球用具が一通り揃い、最新ルールが手に入ると、次は正規のグラウンドが欲しくなります。ヒロシ君はさっそく当局から許可をとって品川停車場そばの広場を整備し、塁間90フィートの正規ダイヤモンドを備えたグラウンドを作ります。明治15年完成したこのグラウンドは『保健場』と命名されました。この頃になると「わからないことは平岡さんに聞け」とばかりにいろんな学校の学生達が出入りするようになっておりました。ところがその時すでにアスレチック倶楽部のライバルチームが誕生していたのです。

 「にっぽん野球昔ばなし」次回はこのライバルチームのお話です。

第4回・ライバルはお殿さま

 田安のお殿さまといえば、清水、一橋と並んで徳川御三卿、将軍に最も近い家柄でありますが、文明開化のご時世、英語のひとつも出来なきゃいけないってなことで、家庭教師に選ばれたのが元・田安家付き家老、平岡家の悪ガ…いや、嫡男ヒロシ君であります。この時の田安家当主は徳川達孝(1865−1941)伯爵、のち大正11年から昭和2年にかけて侍従長を務めた人物ですが当時はまだ10代半ばの若殿様でした。

 このときヒロシ君は当然のように英語だけではなく、ベースボールもお殿様に教えたのであります。思いもかけず、といいましょうか、予想通りといいましょうか、若きお殿様はこのゲームに夢中になってしまいました。何しろお殿様ですから夢中になり方が半端じゃありません。どこか空地はないものかなんて考えないのです。あたりまえのように三田にあったご自分の大邸宅の庭園をつぶしてしまったのです。使用人たちが呆れている間に、築山を壊し、池泉を埋め、林を切って、あっという間に数千坪はあろうかという、だだっ広い運動場が出来上がったのでありました。

 やがて駒場農学校の学生にして佐賀鍋島家十二代当主である鍋島直映侯爵をはじめ、多くの仲間や学生たちが集まりだすと、殿様はヒロシ君の新橋アスレチック倶楽部に対抗してチームを結成することにしました。チーム名もアスレチックスより立派なものを、との要望で執事が頭を捻って古今東西の文献に目を通し、ギリシャ神話の英雄の名前を見つけ出し言上すると、殿様もいたくお気に召されました。すなわち、明治13年、徳川ヘラクレス倶楽部の誕生であります。

 ユニフォームも白一色のアスレチック倶楽部に負けまいと赤と緑の2種類を用意しましたので、紅白戦の折などは色の対比が鮮やかでした。殿様は道具にも凝り性なところを見せて、ある日、職人に命じて作らせた、それはそれは見事な桐の柾目のバットを持って現れました。軽くて美しいそのバットがどうなったか、大和球士氏が著書『野球百年』のなかで実に簡潔に表現されておりますので以下に引用します。「ピッチャー第一球、投げた、打った、折れた。」…哀れ超高級素材の桐バットはつかの間の命でありました。

 このような具合ですから、両チームの対抗意識も強く、たびたび対抗戦を行って雌雄を決しようとしたのです。惜しむらくは観客が少ないこと。困ったお殿様は見物客に茶菓子を用意するなど、観客集めには苦労されたようです。とはいえ当時の最高級の試合ですから学生たちは多く出入していました。そのなかに、工部大学(現・東大)の学生、岩岡保作もおりました。彼はヒロシ君からある秘法を聞き出そうと必死になっていたのです。その秘法とは…次回のにっぽん野球昔ばなしは「魔球登場!」です。

第5回・魔球登場!

 魔球!なんて素晴らしき響き!というわけで今回は日本で初めて投げられた魔球のお話です。新橋アスレチックスを作った平岡ヒロシ君がアメリカから持ち帰ったものの中にこの魔球がありました。当時下手から投げられた球を打つルールでありましたが、ヒロシ君の魔球はそうそう簡単には打てない代物でありました。何しろまっすぐ飛んでくるはずの球が途中から曲がるのですから。そう、今でいうカーブが魔球の正体でした。このカーブ、一説によると本場アメリカでも1874(明治7)年に投げられ始めたばかり、まさにヒロシ君は最新の秘法を持ち帰ったわけであります。

 この魔球、当時の選手たちにとっては大きな驚きでして、『あれは切支丹バテレン式の魔法であろう』などというものまで現れる始末でありました。しかし現実に球は曲がる、曲がれば打てない、秘伝があるならぜひ知りたいと願うのは世の常でして、学生選手諸君はこぞってヒロシ君に魔球の奥義を教えてもらおうと懇願したのでありますが、ヒロシ君ももったいぶって教えない。曰く「平岡家の秘伝である」、曰く「普通の技量を磨けばおのずと秘法は身につくであろう」、曰く「奥義のみを知りても害ありて益なしである」云々…かくして学生諸君は魔球の秘法解明へと悪戦苦闘するのでありました。

 魔球の解明のために特訓をした人物の話が『日本野球史』(国民新聞運動部・編)に載っておりますのでご紹介しましょう。開成学校の学生で酒屋の若主人でもあった市川延次郎氏、彼はカーブの秘法を武芸十八番の奥義のようなものと考え、酒蔵の白壁に的をつくり、その手前二間(約3.6m)ばかりのところに竹竿を立て手ぬぐいを縛りつけ、日々奥義解明の研究をしていたのでありますが、『竹の棒の先の手拭いが時に動けばそれは千住からふいてくる川風である。遂に彼は球をその場に投げ出してヨヨと泣くばかりであった。遙かにこれを見ていた倉庫の若い衆は、若主人の狂態に唯呆れているばかり。』(引用・前掲書)という有様でした。

 多くの学生たちが大なり小なり同様の悪戦苦闘を続ける中、工部大学の学生・岩岡保作氏は学業を捨ててまで毎日執拗にヒロシ君に秘法伝授をせがみ倒し、遂に根負けしたヒロシ君は彼に球の原理、握り方を教えたのです。当時(明治10年代後半)は岩岡氏の工部大学(現・東大)ほか、駒場の農学校(現・東大)、青山英和学院(現・青山学院)、波羅(ポーロ)大学(現・明治学院)、立教、慶應、第一高等中学(現・東大)、商業学校(現・一ツ橋大)などにチームが出来始めた頃でもありました。

 こうして岩岡氏は教わった秘法を自らのものとすべく、夜も寄宿舎の廊下でロウソクの明かりを頼りにピッチング練習を続け、魔球の名手と呼ばれるようになったのでありますが、他の学校にもアメリカ人教師やアメリカ帰りの学生を経て、カーブの秘法が少しずつ伝えられていったのであります。ところでこの岩岡氏とバッテリーを組んだ人物は非常な有名人です。『草茂みベースボールの道白し』俳句界の革命児、若き日の正岡子規。次回のにっぽん野球昔ばなしは「子規とベースボール」です。

第6回・のぼさんとベースボール

 不如帰・時鳥・子規・杜鵑・田鵑・霍公鳥・田長鳥・沓手鳥・妹背鳥・卯月鳥・杜宇・杜魂・蜀魂…ずらっと並べた漢字、これすべて『ホトトギス』なのであります。この『ホトトギス』を自らの号としたのが、正岡常規。幼名・升(のぼる)、のぼさん、「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」の句で知られ、近代文学史上に偉大な足跡を残し、今年野球殿堂入りとなった正岡子規であります。今回は、のぼさん・正岡子規とベースボールとの関わりを見ていきましょう。

 のぼさんは慶応3(1866)年、愛媛・松山藩生まれ。明治16年上京、翌年東京大学予備門(のち一高、東大)入学、そして19年頃にはすっかりベースボールの魅力に取り付かれていたようであります。当時の一高寄宿新報に「赤組は正岡常規氏、岩岡保作氏交互にピツチとキヤツチになる」とありまして(飛田穂洲・著、『野球人国記』)、平岡ヒロシ君直伝の魔球・カーブをあやつる岩岡とのぼさんはバッテリーを組んで、なおかつ投手と捕手を交代しながら務めたわけであります。もしかすると、のぼさんもカーブを投げたのかも知れません。

 のぼさんがどれほどベースボールに夢中になっていたかと申しますと、随筆『筆まかせ』のなかで「運動となるべき遊技は日本に少なし(略)西洋にはその種類多く枚挙するわけにはゆかねども…」といいつつ、競馬、競走、競漕は早いか遅いかだけで面白くない、長飛(幅跳び)、高飛はなおさらつまらない、竿飛(棒高跳び)は少しは面白いがこれも高いか低いかだけ、柵飛(ハードル競走)もその場の慰めだけ、「そのほか無数の遊びあれども特別に注意を引くほどのものなし」テニスは「勝負も長く少し興味あれど」女性向きで「壮健活発の男児をして愉快と呼ばしむるに足らず」と、まさにいいたい放題で他のスポーツをこき下ろした挙句、「愉快とよばしむる者ただ一ッあり ベース、ボールなり」と断言し、いかにベースボールという競技が面白く素晴らしいものであるかということを力説しているのであります。

 当時のぼさんは『七変人』と称する仲間うちで遊び事のランキングをつけておりまして、漕艇や相撲、腕押し、カルタなどにまじってベースボールの番付ではのぼさんが第3位(東関脇)にランクされているのでありました。ちなみに西大関(第2位)にはのぼさんが「剛友」と呼ぶ松山時代からの友人、秋山眞之の名前があります。のちの海軍名参謀・秋山はやがて海軍野球の創始者となり、番付が伊達でなかった事を証明したのでありました。

 明治21年頃は「此頃はベースボールにのみ耽りてバツト一本球一個を生命の如く思ひし時」であったと後に述懐しておりますが、徐々に病魔がのぼさんに取り付いていった時期でもありまして、21年8月、最初の喀血、翌年5月にも喀血し、「鳴いて血をはくホトトギス」と呼ばれるところから『子規』と号するようになったのであります。もっともそれでベースボールをやめるのぼさんではなかったわけでして…というところで、のぼさんの俳句を紹介しながらこのお話は次回へと続きます。

恋知らぬ猫のふり也球遊び
まり投げて見たき広場や春の草
球うける極秘は風の柳かな
草茂みベースボールの道白し
蒲公英(たんぽぽ)やボールコロゲテ通リケリ

第7回・続、のぼさんとベースボール

 明治23年夏、松山。当時中学生だったキヨシ少年が仲間とベースボールに興じていると、見るからに東京帰りの書生さんという一団がやってきたのであります。その中の一人がキヨシ君に、「おい、ちょっとお借しの」とバットとボールを借りると、軽くバッティングを始めたのであります。本場仕込みのバッティングが見られるとワクワクして眺めていたキヨシ君の目の前で、その人は鋭い打球を飛ばして見せたのでした。そのうちに、たまたまキヨシ君の前に転がってきたボールを投げ返すと、その人は軽く「失敬」といってボールを受取ったのです。キヨシ君はその声に何となく心ひかれたのでありますが、その人こそ、のぼさん・正岡子規でありまして、キヨシ君(後の高浜虚子)との始めての出会いはベースボールだったのでした。

 その前年、明治22年の夏にも、のぼさんは友人・竹村鍛に頼まれて、彼の弟・ヘイゴロウ君のために東京からバットとボールを持ち帰り、ベースボールを教えたのであります。このヘイゴロウ君が後に河東碧梧桐と名乗り、自由律俳句の道を切り開いていくのであります。子規が俳句を指導し、後の俳句界に大きな足跡を残した虚子と碧梧桐、両人とも俳句よりも先にベースボールの指導を受けたということは、いかにものぼさんらしいエピソードであります。余談ながら虚子・キヨシ君によるのぼさんの初印象は「他の東京仕込みの人々に比べ余り田舎者の尊敬に値せぬやうな風采」(『子規居士と余』)だそうで、これもまたのぼさんらしいと言えるでしょう。

 明治22年5月に喀血したあと、のぼさんは、自身が地獄へ行って閻魔大王の法廷で裁判を受けるという戯曲風の夢物語『喀血始末』を著しますが、その中で青鬼検事、赤鬼検事の取調べに、「ベース・ボールという遊戯だけは通例の人間よりもすきで 餓鬼になってもやろうと思っています 地獄にも矢張り広い場所がありますか 伺いたくございます」と答えているほど、のぼさんのベースボール好きは病気になっても一向に衰えず、ますますのめり込んでいくのです。キヨシ君やヘイゴロウ君へのベースボール指導も、養生を兼ねて帰郷している時の出来事でありました。

 明治29年、のぼさんは新聞「日本」の随筆『松羅玉液』の中で本格的なベースボール論を掲載します。そこにはベースボールのルールばかりか、技術論から観戦術に至るまで詳しく解説されているのです。少しその例を抜粋してみましょう。

「とにかくランナー多き時は、人は右に走り、左に走り球は前に飛び、後ろに飛び局面忽然変化して観者をして要を得ざらしむることあり。球戯を観る者は球を観るべし。」

「(ピッチャーは)その正投の他、アウトカーヴ、インカーヴ、ドロップ等種々あり。けだし打者の眼を欺き悪球を打たしめんとするにあり。」

 この中でのぼさんは様々な訳語に挑戦しております。投者(ピッチャー)短遮(ショートストップ)本基(ホームベース)などから打者、走者、死球など、現在まで使われる訳語まで考え出しているのです。では、ベースボールの訳語はどうだったのでしょう?次回は「野球翻訳物語」です。最後にのぼさんの和歌を紹介しましょう。

久方のアメリカ人(びと)のはじめにし ベースボールは見れど飽かぬかも

九つの人九つの場を占めて ベースボールの始まらんとす

打ち揚(あ)ぐるボールは高く雲に入りて 又も落ちくる人の手の中に

今やかの三ツのベースに人満ちて そぞろに胸の打ち騒ぐかな

第8回・野球翻訳物語

 サッカーの「蹴球」、バレーボールの「排球」、バスケットボールの「篭球」などがほとんど使われなくなっている中、今もごく一般的に使われる「野球」は、まさに名訳といえるでしょう。ではこの名訳は、いつ頃、どうやって生まれたのでしょうか。
 
ベースボールをはじめて日本語に訳したのは明治4年10月発行の『和訳英辞林』であります。ここではベースボールは「玉遊ビ」と訳されております。これはいくらなんでも大まか過ぎではありますが、ベースボールが日本に伝わったとされる明治5年以前に出版された辞書ですからまだどのような遊びか知らない人がほとんどという状況でありまして、こういう訳になるのもやむを得ないといえましょう。

 明治16年にお雇い外国人教師のストレンジ氏が日本の学生達のために、ベースボールを初めとするスポーツをわかりやすく紹介した『アウト・ドア・ゲームズ』という小冊子を出版いたしました。英文で書かれたこの小冊子を日本語に翻訳したのが下村泰大氏でありまして、明治18年3月にそれは『西洋戸外遊戯法』という名前で出版されたのです。この本の中で使われたベースボールの訳語が「打球鬼ごっこ」でありました。ベースボールを知らない人にも何とかゲームのイメージを伝えたいという苦心の跡がみられる訳ではありますが、もしこの訳が定着していたならば、現在のアナウンサーは「打ちました!カブレラ、日本プロ打球鬼ごっこタイ記録の55号本塁打!」てな具合に実況していたことでありましょう。
 前回ご紹介いたしました正岡“のぼさん”子規が東京に出てきてベースボールに夢中になるのもちょうどこの頃でありまして、明治19年にはベースボールの訳語として、ボールを弄(もてあそ)ぶ、「弄球(ろうきゅう)」という用語を考えております。しかしながら「弄球」と書いて「ベースボール」とふり仮名を当てるなど、いまいちお気に召さなかったご様子で、明治29年に至っても「ベースボールは未だかつて訳語あらず」という文章を新聞「日本」に書いているのであります。

 ベースボールというゲームが徐々に人々に知られてきますと、従来のようにあまり説明的な訳語は必要なくなってきますので、文字のまま直訳しようという考え方が試みられました。「ボール」は早くから「球」と訳されておりますので、「ベース」をどう訳すか、これを「底」と訳して「底球」、あるいは「基」と訳して「基球」などという訳語が登場してくるのであります。「底球」などというとテニス(庭球)と混同しそうでありますが、実際に京都の三高が初期に「底球部」と称しておりましたし、「基」もホームベースを「本基」と訳したりしておりましたので決して奇抜な発想ではなかったのであります。

 しかしながら若き明治のベースボールプレーヤーたちはあまりこのような訳語に興味を示さず、もっぱら「ベースボール」あるいは単に「ベース」と呼んでいたようであります。この「ベース」という略語、実は現代まで生きておるのでありまして、皆さんの中にも少年時代、人数が少ない時に二塁のない野球をした覚えのある方もおいでるでしょうが、あのゲーム、本塁や一塁は本式の野球と同じ形をしているのになぜ「三角ベース」と呼ぶのでしょうか。つまり「三角ベース」の「ベース」は塁という意味ではなくて「ベースボール」の略語、すなわち野球という意味なのであります。

 「野球」という用語は、のぼさん・正岡子規がベースボールの訳語に苦心しながら第一高等中学校の予科を卒業した年に、入れ替わり入学してきた青年がのちに考え出したものであります。青年の名は中馬庚、そしてこの「野球翻訳物語」は次回に続きます。