『大洋ー名古屋・延長28回の死闘』

 昭和17年5月24日の後楽園球場で、空前の記録が生まれました。名古屋対大洋戦、延長実に28回。通常の試合の3倍以上を戦ったこの延長回数はアメリカ大リーグにもない大記録でした。ここにその試合のスコアボードの写真があります。中央上部にストライク、ボール、アウトの文字。左に名古屋軍、右に大洋軍の選手名が掲示され、その下にスコアが表示されています。先攻名古屋軍は2、3回に各1点を先制、後攻の大洋軍は6回に2点を取り同点に追いつくと続く7回にも2点をあげて勝ち越し。9回表に名古屋軍が2点を取って延長戦に入ると、そこから延々と0が続きます。延長15回でスコアボードの端まで行くと、16回から後はさらに下の段に一回り小さな数字で表裏合わせて26個の0が並び、遂に得点の入る事なく終了しています。

 このスコアボードには野球には不似合いな言葉が、選手の名前よりも大きな文字で書かれています。『進め一億火の玉だ』。そう、時代はまさに太平洋戦争真っ只中でした。野球はアメリカのスポーツということで徐々に弾圧が始まり、昭和15年頃からチーム名を日本語に改め、17年ごろには「試合に引き分けがあるのはおかしい、勝負がつくまでやれ」という要望が陸軍情報部あたりから出され、敢闘精神が強調されていきました。プロ野球誕生当時から『日没引き分け』となっていたのを、昭和15年9月12日以降、引き分け再試合となり、昭和15年には469試合中22試合あった引き分けが昭和16年には340試合中4試合、全試合に占める比率では4.7%から1.2%へと激減したのです。

 昭和16年12月8日の真珠湾攻撃以前から、プロ野球選手たちの軍隊召集は始まっており、戦地へ赴くもの、復員してくるものが毎年入れ替わり立ち代りしていました。昭和17年はまだ戦争は敗色濃厚という訳ではなかったのですが、資源不足は確実に市民生活に忍び寄り、戦争の前途への不安が漠然と周辺を包んでいる時代でした。粗悪なボールは打撃不振を招き、この年の首位打者、巨人の呉選手の打率は.286、打撃成績10位の名古屋・小鶴選手は.216でしかありませんでした。前年行なわれた延長再試合も取りやめられ、日没引き分け制に戻したことと打撃不振のため、引き分け試合数は全420試合中22試合、5.2%へと増加しています。

 そんな中でこの延長28回の大記録が生まれたのです。それだけではなく、この試合は変則トリプルヘッダーの第三試合だったのです。第一試合が名古屋対朝日、第二試合は大洋対巨人。つまり延長記録となった第三試合は大洋、名古屋両チームにとってこの日2試合目、名古屋は第一試合も延長10回を戦っており、大洋は第二試合終了後わずか25分の間を置いたのみで第三試合に臨んだのです。大洋の先発、鉄腕投手と謳われた野口二郎はこの年、チーム105試合中66試合に登板、投球回528イニング、40勝をあげて大洋2位躍進の立役者となります。この試合の前日、5月23日にも対朝日戦に登板、1安打完封、しかも9回1アウトまでノーヒットという快投を演じたばかり、さらにこの日の第二試合でも代打で出場していたのです。

 大洋・野口二郎、名古屋・西沢道夫両投手は28回を投げぬき、7回裏に代打に出た苅田久徳が両軍通じて唯一の交代選手でした。大洋の選手は第二試合から続けて連続37回、名古屋の選手は第一試合と合わせて38回の出場となったのです。いや、選手たちに負けず劣らず苛酷だった人たちがいます。第一試合から連続47回、そう、主審・島秀之助、塁審・池田豊、沢東洋男の三名です。

 延長に入って両チーム、時折り走者を出すもチャンスらしいチャンスにならず、両投手の絶妙のコントロールで試合はテンポよく進んでいきます。主審の島によると16回頃に足の運びがもたつくようになってきた選手たちも20回を終える頃にはまたキビキビした動きに戻ってきたそうです。鉄腕・野口のすごさは、延長20回を過ぎてから三振奪取ペースが上がった事です。19回までで5個だった奪三振は20回以降で8個奪っているのです。一方の西沢も打たせて取るピッチングで大洋にチャンスを与えません。

 5,000人の観客はこれほど長い試合にもかかわらず、ほとんど席を立ちませんでした。昭和8年の甲子園、中京―明石延長25回の大記録を上回る期待感が球場に満ちていたのです。ついに延長25回を終えると場内アナウンスが「中京対明石の延長25回戦の日本記録を破り、次の回へ進みます」と告げ、観客は総立ちで拍手を送ったのです。その直後の26回表、野口は二者連続三振のあと、次打者をセカンドゴロに打ち取った、はずでしたが、名手苅田がエラー。続く打者・西沢が右中間を破りフェンスに達する長打。走者は二塁、三塁と駆け抜け一気にホームへ、ライトが打球に追いついたときに外野深くまで中継に走っていた苅田は、ライトからの送球を受けるなりホームに向って振り向きざまの大遠投、捕手佐藤のミットにストライク返球、走者アウトの大ファインプレーでした。

 26回を終了した時に再度場内アナウンス「大リーグの延長26回の世界記録を破りました。次の回へ…」観客は騒然、大喜びとなりました。そして27回裏、二死から佐藤が左中間を大きく破る三塁打コース、しかしこの日、捕手として実に36イニング重い用具を身にまとい続けた佐藤の足はよろめき、二塁に達するのがやっとでした。そして次打者のショート頭上を越えるヒット。ついにゲームに終止符が打たれるかと思われましたが、佐藤は三塁を回ったところでよろめき、疲労のあまり両膝をついてしまい、はって三塁に戻ろうとするも間に合わずアウトとなってしまいました。しかしながら、疲労の局限の佐藤にムチ打つ客も、笑う者も一人もいなかったといいます。そして28回を終え、日没までに少し間を残して6時27分、引き分けとなったのです。

 延長28回、これは昭和15年のチーム名日本語化に始まった戦争という時代のなかで、生まれて間もない職業野球を生き延びさせるための先人達の苦闘、野球用語を日本語に変えてまで生き延びさせようとした人々の思い、そんな時代のなかで生まれた空前絶後の大記録でした。

 この試合の12日後、昭和17年6月5日、ミッドウェー海戦で日本海軍は大敗を喫します。この年は選抜大会、夏の甲子園ともに中止されました。8月7日にはガダルカナル島にアメリカ軍が上陸、壮絶な消耗戦の末、18年2月7日にガダルカナル撤退。同年、六大学野球連盟は解散し、リーグ戦は中止。そんな中、プロ野球は野球用語を日本語に変え、19年春、夏のリーグ戦まで存続したのです。しかし秋になると選手の召集は増えるばかり、単独ではチームの体をなさず合同チームの対抗戦を行っていましたが、球場の接収も相次ぎ、遂には一時停止の運命となりました。

 この試合を戦った大洋というチームはなじみがない方も多いと思います。戦後の大洋ホエールズとも、大洋漁業とも無関係なチームです。昭和15年にチーム名を日本語化し、タイガースは阪神に、イーグルスは黒鷲に、そしてセネタースは翼と名前を変えました。この翼が翌16年、名古屋金鯱軍と合併して出来たチームが大洋でした。18年には西鉄が出資し、チーム名を西鉄としますが、戦局の悪化に伴い1年限りで球団を解散します。

 終戦直後、東京セネタースの初代監督だった横沢三郎が新生チームとしてセネタースを再興、その後東急フライヤーズ、急映フライヤーズ、東急フライヤーズ、東映フライヤーズ、日拓ホームフライヤーズを経て現在の日本ハムファイターズになります。西鉄はすぐにはチーム再建には動かず、戦後3年を経てリーグへの復帰申請を行ない、2リーグ分立の混乱の中、西鉄クリッパーズとして再生します。翌年西鉄ライオンズとなり黄金時代と数々の伝説を残して現在の西武ライオンズになります。

 一方の名古屋軍も昭和19年には親会社の名古屋新聞社に見捨てられ、産業と名前を変えて戦前最後のシーズンを戦います。この年は西鉄と大和(黒鷲から改名)の2チームが解散したこともあり、登録選手数は89名と前年から半減、1チーム当りわずか15人しかいないシーズンでした。戦後は中部日本、中部日本ドラゴンズ、中日ドラゴンズ、名古屋ドラゴンズと名前を変え、現在の中日ドラゴンズになります。

 西沢道夫は戦後打者として大成、ブンちゃんの愛称で親しまれ1シーズン5満塁本塁打の記録を立てました。このブンちゃん・西沢が昭和24年、25試合連続安打を記録し、当時は新記録ではないかと騒がれたのですが、調べると21年に31試合連続安打の記録が見つかり、残念ながら新記録ではなくなりました。この31試合連続安打の記録を作っていたのが、打者として戦後阪急に在籍していた野口二郎でした。


参考文献
「真説日本野球史・昭和編」大和球士・著
「私の昭和激動の日々」野口二郎・著
「別冊一億人の昭和史・日本プロ野球史」毎日新聞社

この原稿はメールマガジンBaseball Monthly 2002年9月号に掲載されたものです