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スリランカ探検隊2003/07/10 かしゃぐら通信

「ウィラーガヤ」表紙 17刷 2000
「蓮の道」表紙 南船北馬舎刊
「無欲という欲望」 『ウィラーガヤ』と『蓮の道』



 マーティン・ウィクラマシンハの小説『ウィラーガヤ』が『蓮の道』という邦訳名で出版されています。スリランカのシンハラ文学は既に『明日はそれほど暗くない』『熱い紅茶』『亡き人』などが翻訳されていますが、昨年、邦訳されたこの小説は一見、恋愛小説。でもその中身がいたって深淵で、シンハラ人の精神世界、それもその奥底に潜む仏教的な思念に深くかかわる。そこで、今回のスリランカ探検隊は原作『ウィラーガヤ』と邦訳『蓮の道』にまつわる、やや仏教哲学めいたお話。

アラウィンダの愛と孤独

「アラウィンダは孤独に翻弄された。父の死、母との別離、姉のメーナカーが実家を我が物としたことで孤独は増し、彼は自分の世界へ閉じこもっていくようになった」

 作者マーティン・ウィクラマシンハは、「アラウィンダと仏教文化」という小文をそう始めています。

 アラウィンダはこの小説の主人公。明晰な、繊細なこころを持った青年です。父の後を継いでウェーダ伝統医になることを期待されていたのですが、彼はその道を選ばず、インド的な化学、真鍮から金を作り出すという錬金術に没頭して日を過ごしていました。しかし、父の死とともに彼の平穏な人生が激変します。純粋な彼は身の回りで起こった変化が何であるかも気付かぬままに、同級生のサロージニーへ抱いた初恋を捨て、姉によって家を奪われ追い出され、また、周囲の人々とも疎遠となる暮らしを求めて自省的に人生を送るようになりました。

  実家を姉から追い出されたアラウィンダは村に一軒家を借りて家政婦を雇いその連れ子とともに暮らしました。アラウィンダの孤独は家政婦とその娘バティの登場で癒されます。青年期に抱いた同級生のサロージニーへの恋心とその破局は中年になって抱いた家政婦の娘バティーへの愛となり、そうして揺れ動く自分の心にアラウィンダは再び迷います。そして、余りにやさしい彼の心は悟りのようにして”ある信念”を掴みます。その信念に従って彼は若いバティーを彼女の愛する青年と結婚させ生活の資金を与えます。しかし、その行為のために、彼はその人生に咲いた二つ目の愛をも自ら失い、更に疎ましい孤独の世界へ落ち込んでいきました。
 彼が悟った”信念”とは何か。その”信念”に生きたがために、彼は孤独と閉塞を囲い込み、慢性の貧血によって病に落ちます。そして、彼は自ら選んだかのようにして彼を襲う死の現実と直面する。バティが死の淵にある彼を救い出そうとしますが、時は遅かった----。
 彼の生涯は悲惨だったのか。彼の世界は孤独で閉塞していたのか。アラウィンダを死に追いやりながらも、この小説の作者は読者にそう問い詰めてきます。
 
 小説「ウィラーガヤ」が発表されて後、スリランカの批評家たちは主人公アラウィンダが精神分裂病、ノイローゼ、現実逃避、敗北主義に犯されていると評しました。小説が発表されたのが1956年。そして、マーティンウィクラマシンハがそうした批評に対して反論とも言える答えを送ったのが1965年。その反論は「アラウィンダと仏教文化」と名づけられ、小説の末尾に「参考」と注意書きされて作者自身によって加えられ、その補足の付いた『ウィラーガヤ』が今もスリランカで版を重ねているのです。 

  小説が発表された当時、スリランカではセンセーショナルな反応が巻き起こりました。アラウィンダは現実を逃避する敗北主義者。西洋の小説に流行する精神分裂の描写をまねた小説。そうした批判にマーティン・ウィクラマシンハは「アラウィンダと仏教文化」の中でこう答えています。
 ----- 西洋世界の文化ではこうしたアラウィンダの性格を精神分裂病や現実逃避などと理解するのでしょうが、私の小説はそうした戦後のアメリカ的な解釈で理解できるものではないのです。
 西洋と東洋という二つの異文化が世界にはあります。スリランカでの小説批評が西洋の、それもアメリカナイズされた精神分析の手法に飲み込まれている事には危惧を覚えます。そうした傾向へ注意を喚起する警笛がこの小説で鳴らされているのです。元よりこの小説はスリランカの村の暮らしの一こまを描いたもので、そこに宿る私たちの風土を描いたものです。シンハラ人とシンハラ仏教の世界をあるがままに見詰めなおそうではありませんか。-----マーティン・ウィクラマシンハは「アラウィンダと仏教文化」の中でいくつかの小説の事例とウパニシャッドやシンハラ文化を例に引きながら、だいたい、そうした話をしています。

 マーティン・ウィクラマシンハのその指摘は第2次大戦後にスリランカが急速に自国の文化に目覚めた事と無関係ではないでしょう。イギリスの植民地だったセイロンがスリランカと名を戻し、英語が支配していた国土をシンハラ語の島に戻していく一連の流れとも無関係ではないのです。当時の知識人たちが守ろうとした西洋志向と西洋的な思考形式をスリランカに本来備わるものの考え方、風土へと包み込んで行こうとする意図がこの小説にはメッセージとして含まれていたかもしれません。
 この小説はこれまでの私の小説とは違います、とマーティン・ウィクラマシンハは「アラウィンダと仏教文化」の中で語っています。作者の中にはれきぜんとした思いがあって、スリランカという風土の心情を告白し、スリランカの文化を守る意図を持った物語が『ウィラーガヤ』であったように思われます。

「ウィラーガヤ」と『蓮の道』

 「ウィラーガヤ」は『蓮の道』(野口忠司訳・南船北馬舎刊/2002)として邦訳されましたが、その原題は「欲望からの開放、すなわち無欲」であると訳者の野口忠司さんも「あとがき」で触れられています。『蓮の道』も当然、仏教への思いを連想させますが、蓮の花が「ウィラーガヤ---無欲」という仏教的な発想をどれほど喚起できたか、どうもそこへ繋がるには遠いような気がします。
 シンハラ語原文の全体に見とめられる事ですが、スリランカのシンハラ仏教、それも村の文化の中に生きるシンハラ仏教の言葉がアラウィンダの独白を借りて随所に現れています。まるでトリック・スターのようにして現れアラウィンダを悩ませる姉のメーナカーはマヒンダ長老とティッサ王の「マンゴー問答」を椰子の木を借りて戯画的に試みたりもします。小説の中にはいくつかのチェックすべき仏教にまつわる単語があるのですが、その中でも基点となる言葉が「ウィラーガ・ラーガヤ」という語句です。

 原文のタイトルとなった「ウィラーガヤ」は小説の中で何度となく繰り返して使われています。例えば、つぎの一文はアラウィンダの掴んだ”ある信念”が何であったのか、それを知る上で明快な回答を与えてくれます。

 「彼女の存在によって私の中に生まれたものは欲望や愛情ではなくて、それらをひとつの根源的な欲求にまとめるというすばらしい発想だった。無欲という欲望である。」『ウィラーガヤ』17刷・129ページ 原文参照

 「欲望」はラーガヤ 欲望、「愛情」はアーラヤ 愛情。「根源的な欲求」と訳したのはアーサーワ 欲望、希望、愛情 etcで、本来は「欲求(〜したい)」のことです。最初の単語ラーガヤ 欲望 「欲望」の頭に打ち消し語のウィ 打ち消し語を添えるとウィラーガヤ 無欲 諦念「非‐欲望(→無欲)」、つまり原題の『ウィラーガヤ』になり、それが”無欲という欲望ウィラーガ 非ー欲望 ラーガヤ 欲望”を指し示しているのです。
 小説の中のアラウィンダは「無欲という欲望 ウィラーガ 非ー欲望 ラーガヤ 欲望」に辿りついたと独白しています。つまり、アラウィンダに自らの姿を投影した作者のマーティン・ウィクラマシンハの思いです。ウィラーガヤ 無欲、諦念「非−欲望」でさえラーガヤ 欲望「欲望」である。ラーガヤ 欲望の中にそれとは相反する概念を組み込んでいるのです。
 初恋のサロジニーを愛しながらもサロジニーから身をひいて、しかも、彼女を親友と一緒にさせるというアラウィンダの行動は、今の日本の風潮からすれば一笑に付されるでしょうが、彼はそのとき、「無欲という欲望」に気がついたのです。

 この部分、翻訳では「彼女が原因で私の心に芽生えたものは、燃えあがるような激しい感情や愛慕の情ではなく、彼女に対する漠然とした恋心が絡んだロマンチックな感情だった。情欲に欠けた情愛。」(『蓮の道』、1刷・172ページ)となっています。このような意訳もできるのでしょうが、これだとシンハラ語版の原題が霞んでしまいそうです。
 
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 「アラウィンダと仏教文化」で、作者はこの「ウィラーガ・ラーガヤ」という言い回しに触れてこう語っています。

 「そうしたひたすらな愛情を彼は二人の心に対しても抱いたが、その時々に起こるのは無欲という欲望だった。」原文参照

 無欲をも欲望のジャンルにいれるという理解は、日本仏教の諦念とも違うのではないでしょうか。「ウィラーガ・ラーガヤ(無欲という欲望)」がマーティン・ウィクラマシンハの創り出した新語であったにしても、それはシンハラ人の村にある元々の生活スタイル、風土が生んだ智慧のように心に響いてきます。
 小説はその最後のページで実にすがすがしく、死に行くアラウィンダを描いています。いや、それは死ではなく、ニルワーナ。覚醒の世界への旅立ち。最後の彼の独白にはそんな予感さえします。「ウィラーガヤ」を締めくくる最後の三行がそうした予感に導いてくれるのです。


* 1956年に初版を出したこの小説は2000年に17刷となりました。先日、アイランド紙( 2003 - 06 - 29 sun )が、かつてマーティン・ウィクラマシンハが西洋志向のエリート主義文芸評論家をこき下ろす小説評論をシンハラ語で書いていたものを英語に訳して採録していました。西洋かぶれを廃し、シンハラの村を愛せよ。村の人々を愛せよ。彼のシンハラ-イズムは多分に挑発的ですが、その精神は仏教文化とともに今に引き継がれているようです。

----------------------------------------『かしゃぐら通信』
●この小説を読みたい方へ------

日本語訳版『蓮の道』は南船北馬舎
シンハラ語版『ウィラーガヤ 無欲、諦念』の発行はSimasahitha poudgalika samagama。 18/3 Kirimandala Mavatha ,Thavala , Rajagiriya SriLanka。現在17版がグナセーナ書店などで入手可能です。

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