セイロンのゼロ戦

サンフランシスコ平和会議とセイロンのゼロ戦





サンフランシスコ平和会議とセイロンのゼロ戦
日本帝国軍機、セイロンを爆撃す映画にならなかったセイロンの日本兵
日本兵、トリンコで救助される映画にならなかったセイロンの日本兵
映画にならなかったセイロンの日本兵映画にならなかったセイロンの日本兵
爆撃関係資料1
爆撃関係資料2
参考→サンフランシスコ平和会議のことを詳しく知りたいのですが




日本帝国海軍戦没者慰霊碑
コロンボ・カナッテ

 サンフランシスコ平和会議とセイロンのゼロ戦


 サンフランシスコ平和会議。日本の再独立がこの会議で果たされた。議場となったオペラ・ホールではセイロン(現スリランカ)の全権大使JRジャヤワルデネが日本の独立擁護の演説をし、各国代表に感銘を与えたことはよく知られている。
 よく知られているというのは、残念だが日本での話ではない。スリランカではだれもが知っているという意味だ。日本では防衛庁(今、防衛省となった)の戦後資料の中に、ジャヤワルデネの演説後、会場からは拍手が鳴りやまなかった、と記録されているぐらいだ。忘れ去ることに長けた民族はジャヤワルデネの演説を覚えていない。
 昭和54年、コロンボの共同墓地に日本軍兵士の慰霊碑が建てられた。沖縄返還の際、佐藤栄作首相の下、陰ながら力を尽くした越智啓介がその功によってスリランカ大使となった。越智はセイロンに散った戦士を忘れてはいなかった。連合国軍を相手に戦争を仕掛けた日本はハワイのパールハーバー空爆の次に、セイロンのコロンボとトリンコマリを爆撃した。そのとき、英国軍の対空砲撃と空中戦とで帝国軍機が撃ち落とされた。落とされたのは何機かの空爆機と一機のゼロ戦だ。
 越智慶介はスリランカの大使となったとき、撃ち落され捕虜となった日本海軍兵士たちの慰霊碑を墓地に建てた。
 慰霊碑があるのはコロンボ市営の共同墓地(カナッテ)。ここには、今も日本軍の爆撃で犠牲となった英国軍兵士を弔う英国人が訪れる。入り口の管理事務所で墓地入園の手続きを取る彼らの姿をよく見かける。だが、参拝に訪れる日本人の姿はない。
 共同墓地正門を入り、中央通りを奥にまっすぐ進み12街区を右に曲がるとその右手に日本人墓地として囲われた一角が現れる。この鉄枠の中の片隅に日本帝国海軍戦没者の慰霊碑がひっそりと建っている。ここには訪れる人の様子もない。一面草生す大地の寂しさが戦士の哀れを地の底から訴えているかのよう。
 碑文全文は以下のとおり。

  第二次大戦中大日本帝国海軍戦死者の遺体を丁重に埋葬供養された
スリランカ国民の「愛」を記念し戦死者の霊の平安を祈り之を建つ
   昭和五十四年十月十八日
   日本国特命全権大使
            越智啓介
 


コロンボ・カナッテ正門

 このカナッテ(共同墓地)にはスリランカ初代首相ドン・ステファン・セナーナヤカの墓も、シンハラ・ジャーティヤ紙の卓越したジャーナリストだったピヤダーサ・シリセーナの墓もある。誰もが平等に、同じ地平を分かって眠っている。入口の管理事務所で墓参の英国人を見かけたが、正面入り口の左手には英国海軍戦士を埋葬した一角がある。日英の戦士がここに共に眠っている。


帝国海軍慰霊碑正面

 日本帝国海軍戦没者の慰霊碑には日本海軍戦死者の名もなく、戦士が国を守るために行った業績をたたえる文もない。ただ、カギ括弧つきの「愛」がある。
 神と賞賛された南雲部隊の戦後は空虚に過ぎる。この日本は今、戦争の神を失い、戦争を批判する理性も失った。そして、戦のあとに、再び他国から「愛」を捧げられる軍人を生もうとしている。あてがいぶちの憲法を疎い、庁を省に昇格させて、さて、次は憲法を破って派兵か。


カナッテの日本人墓地

 白い塀と鉄棒の門で囲まれた日本人墓地。そのはずれにヒデキ・グループの故カルパゲさんが眠っている。写真右に白く見えるのが彼の墓だ。
 マザー・テレサの笑顔に見守られるその墓に向かって歩いた。安らぎを覚える。墓の前に置かれた日本式の線香を灯す石台から煙が漂い、紫の色が空へ昇って行った。