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「皿を割れた」と、なぜ言える?@
KhasyaReport
第2版 シンハラ語の文法を屈折語として説明するとやたらに厄介なものになる。所詮、屈折語も膠着語も学説でしかない。言葉の話し方を学ぶには学説に準じるより実践に従ったほうが得策。「シンハラ語の話し方」はシンハラ・ネィティブの話し方をそのまま再現しました。
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対格主語の場合
Khasya Report 2007-Apr-16 / May-20 / Dec-19 2008-Jan-12 Apr-15 2009-Oct-03
シンハラ語の研究者なんていないだろう、と思われるかも知れませんが、決してそんなことはありません。探せば何人かの研究者が現れます。尤も、日本での研究活動となるとシンハラ語学会があるわけでもない。まだ、ちょっとお寒い状況かも。
日本に組織としての研究の場がないからといって、岸本秀樹や渡辺明を忘れてはいけない。両者はUG学派の流れを引き、シンハラ語研究を米国で発表しているのだ。
その評価は高い。後続のシンハラ語研究論文には必ずと言っていいほど彼らの論文がリファレンスに掲げられる。「かしゃぐら通信」が紹介したP・ハグストロムの「疑問文解析」でも彼らによる日本語とシンハラ語の対照研究が彼の論旨を形成するための資料として取り上げられている。ハグストロムがWh移動や係り結びkakarimusubiをシンハラ語に見出したのは、岸本や渡辺の先行研究に負っているのです。
こうして、日本語とシンハラ語の対照研究が主に米国のUG学派で行われ続ける中、本家本元の日本語学からのシンハラ語研究は唯一つの例外を除いてまったく行われなかった。
唯一つの例外。それは宮岸哲也による日本語とシンハラ語の対称研究だ。
2007年2月、「口語シンハラ語のヴォイス」という論文が宮岸哲也によって安田女子大学紀要35号に掲載された。宮岸哲也がここ数年精力的に発表しつづけているシンハラ語研究の諸論文は、日本人が日本語の立場から初めてシンハラ語を取り扱ったのだ。
米国のUG学派系の研究者たちが好んでシンハラ語と日本語を研究対象として取り上げ、両言語に共通の言語規則(ユニバーサル・グラマー)を見出そうとしたのが20世紀末のシンハラ語研究第一期とすれば、宮岸哲也が日本語学からの視点でシンハラ語研究を日本語で扱ったのは21世紀初頭の新たなシンハラ語研究であり、それはシンハラ語研究第二期の萌芽だった。
シンハラ語と日本語の対照研究はより緻密になり、特にシンハラ語と日本語の接辞に徹底して焦点を当てた宮岸の研究は他に類を見ないことから、後続の研究者の指標となるだろう。
ここでは「口語シンハラ語のヴォイス」の紹介を中心にして、他のシンハラ語研究を踏まえながら、シンハラ語の無意志動詞と受動態を考えてみよう。
シンハラ語に受動文はない
無意志動詞と受動態
「口語シンハラ語のヴォイス」ではシンハラ語のヴォイスの特徴を四点にまとめ、それらの中で特に受動態に力点を置いている。そして、「口語シンハラ語には、生産性の低い語彙的な受動態はあるが、生産性の高い文法的な受動態はない」とする論証を行なった。
受動文がないという指摘は奇異に聞こえるかもしれない。
シンハラ口語に受動態はないとしても、現実には受動態で表現されるようなこと、「〜された」というような受動の状況は必ず生じる。このとき、言語表現と現実の行為とのギャップをシンハラ語はどう埋めるのか。
文語シンハラでは、『シンハラ語の話し方』の例文に掲載した「動詞不定形+ラベーlabee」の形で受動の態を作る。この動詞句の前に[〜によって」を意味するウィシンという接辞が置いて行為者を表し受動文とする。
この受動文は日本語が「〜によって+動詞語幹+れる/られる」で受動態文を作るのと語構成が似ている。しかし、実際のシンハラ語会話にこの受動文を聞くことはまずない。それはこの語法が文語シンハラ語だけのもので、口語シンハラではまったく別の言い回しが用いられるからだ。
こんな例文がある。
| 4 mama sinhala igenagannawaa I learn Sinhala / I am learning Sinhala. 5 mata sinhala igenaganna wenawaa I'll have to learn Sinhala, (i.e. the circumstances force me to learn Sinhala=happen to learn) |
| an Introduction to Spoken Sinhala 3rd edition p.68 / W.S.Karunatillake / M.D.Gunasena & Co.Ltd 2004 |
文はこう作られている。
4 mama sinhala igenagannawaa
私[主格] シンハラ語[対格] 学ぶ[他動詞・現在]
私は シンハラ語を 学びます
5 mata sinhala igenaganna wenawaa
私に[与格] シンハラ語を[対格] 学ぶ - になる[他動詞連用形+無意志動詞・現在]=
私は シンハラ語を 学ぶようになるだろう。
4は能動文。
5は、どうだろう。能動文だろうか。
igenaganna venawaaは「学ぶようになる→学ばされる(受動)」となる。igenaganna venawaaが語彙的な受動態を作っていると言える。つまり、文全体は、「私には-(何かの条件/動作主の作用があって)-シンハラ語を-学ぶようになる」という受動態のような意味を背負うのだが、文の形式そのものは受動態でない。
カルナティラカのシンハラ口語教本ではhappen to(偶然に)の英訳を組み込んで、そこから動作主の作用を排除しても生じる受け身の状況を表そうとしている。しかし、これは受動文ではない。igenaganna wenawaaと言う動詞が曲者だ。シンハラ語は動詞が活用部分にwenawaaを持つと無意志動詞として分類する。無意志動詞とは偶然の行為を表し、その名の通り話者の意思しないことを表す。
「割る」と「割れる」と「割られる」
シンハラ語には動詞を意志動詞(サカルマカ動詞)と無意志動詞(アカルマカ動詞)とに分ける文法規則がある。
カルマに接頭語サを乗せるとカルマを強調する。つまり、意志を示す動詞という意味だ。逆にカルマに打消しの接頭辞アを乗せると、意志が消滅する。これが無意志動詞だ。サカルマカ動詞とアカルマカ動詞という大別は、シンハラ語において他動詞、自動詞という区分より重要な規則となっている。
ここで「口語シンハラ語のヴォイス」が能格言語的として紹介する次のシンハラ文Inman,1993を見てみよう。
lamayaa pingaana bindaa. 子供が皿を割った
pingaana bindunaa 皿が割れた
lamayaa atin pingaana bindunaa 子供が偶然に皿を割った
例えば、動作主(主語)の「子供」が皿を「割った」場合、「割った」が意志動詞だ。「割る」行為者(子供)があり、「割る」対象(皿)がある。つまり、意思動詞は他動詞と同じ範疇に分けられる。
一方、動作主の行為に作為がない場合、手が偶然、皿に触れてしまったために、自然と皿が「割れる」とき、「割れる」が無意志動詞です。動作主の行為はあったが、それは作為でない。意志があったか、なかったか。このことに焦点を当てた動詞は自動詞とは言えない。自動詞は単に自発の行為だからです。無意志の-アカルマカ-という概念の捉え方はシンハラ語独特の、行為へのスタンスが潜んでいるのです。あるいはそれはインド的な、と言い換えることができるかもしれません。「(動作や行為が)無意思の力で発する」ということ、日本語を含むインド的な風土が無意志動詞に漂うのだから。
日本語では「割れる」の「-れる」は「自発の助動詞」であり、「動作や作用が自然に行われる」ことである、とされる。「自発」は「れる/られる」(古語では「る/らる」)の語形を持つ動詞で表され、「れる/られる」は受け身や使役にも使われる。シンハラ語の無意志動詞は、この日本語の「自発の助動詞」に与えられた意味を持っている。無意志動詞は「自発の動詞」と言い換えてもいいでしょう。
先の「口語シンハラ語のヴォイス」で宮岸が紹介している例文Inman,1993に戻れば、
lamayaa pingaana bindaa.
pingaana bindunaa
lamayaa atin pingaana bindunaa
これらはインマンによって次のように文法的に説明された。
1 lamayaa pingaana bindaa.
子供[主格] 皿[対格 無表示] 割る[意思他動詞・過去]=子供が皿を割った
2 pingaana bindunaa
皿{対格 無表示] 割れる{無意思自動詞・過去]=皿が割れた
3 lamayaa atin pingaana bindunaa
子供[atin句] 手で 皿[対格] 割る[意思他動詞・過去]−子供が偶然に皿を割った
The
child happened to break the plate
1の能格文からは次のように受動文が作れる。
4 lamayaa visin pingaana bindaa ladee
子供によって[助格] 皿[主格] 割られた[意志他動詞・過去‐ 受動の接辞]
1の能動文から4の受動文が作れるが、4の文は文語シンハラだけのもの。シンハラ語で助格が用いられるのは文語であって、口語的(本来のシンハラ語)ではない。
1の他動詞の目的語と2の自動詞の主語は共通の対格で示される能格的表現の例。
問題は3の例文です。
この文はInmanの論文で、The child happened to break the plate.と説明され、また、bindunaaが意志動詞として訳されていることに注目し、宮岸論文はこれを修正して、
3‘ lamayaa atin pingaana bindunaa
子供[atin句 ] 皿[対格] 割れる[無意思自動詞・過去]=子供のせいで皿が割れた
とした。
bindunaaは無意志動詞bindenawaaの過去形だから宮岸論文の指摘が適切だと思う。偶然に皿を「割った」のではなく、皿は「割れた」のだ。
もっとも、happened to(偶然に)の訳語だが、シンハラ文の「対格+無意思動詞」が英語に訳されるときには必ずこの英訳が当てられる。特に無意志動詞の解釈の場合、英語ではシンハラ語を理解しにくい状況があるようだ。
happen to の限界
このhappen to「偶然にも…が起こった」はシンハラ語のbindunaaの「割れた」を言い得ているはずなのだが、先のカルナティラカの例文でもそうであるように、英語でシンハラ語を解釈するときの限界がこの無意志動詞の理解の仕方にある。happen
to には神の意志にそむいて何かが偶然に起きてしまった、という意味合いがあるが、シンハラ語の無意志動詞には、自然に事は起きた、という意味以外に別の仔細はない。
シンハラ語は動作主が対象に働きかける表現を好まない。それは日本語が持っていた過去の姿に似ている。そこはかとなく、ものごとをあるがままに叙述する。対象との間に取るその距離感をシンハラ語は忘れていない。
「〜をする」ではなく「〜になる」という状況。世界観。その「なる」という意識が「無意識」を作るのではないだろうか。
3の例文に戻れば、The child happened to break the plate.は「子供が偶然に皿を割った」のだから「子供のせいで皿が(自然と)割れた」とは意味が違う。
「皿をして、落ちる状況になった。だから、割れた)」という文がシンハラ語の無意志動詞文だ。
シンハラ語では対格(皿を)+無意志動詞(割れた)だから、それをそのまま日本語に写すと「皿を割れた」になる。
無意志動詞は対格の主語を持つ。「皿を」を対格主語と捉えると「皿が」と(便宜上)訳されるが、シンハラ語ではあくまでも「皿を」と言っているのだ。
では、シンハラ語が対格主語を取るということ、つまり「皿が割れた」というべきなのに「皿を割れた」と言ってしまうのは、一体、どんな訳によるのだろうか。
シンハラ語に現れる特殊な主語にもう一つ、与格主語がある。次にこの与格主語を検討して「特別な主語」を考えて見よう。
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| 「皿を割れた」と、なぜ言える? B口語シンハラの主語と無意志動詞 |
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